経営者の責任の取り方

松本 徹三

この記事を読まれた読者は、容易に現実に存在する特定の会社や特定の人を想定されると思うが、私は敢えて、S社、K氏という仮の名前を使った。ここでは、個別の問題ではなく、よく口にされる「経営責任」という言葉についての「一般論」を語りたいと考えたからだ。


経営がうまく行かなかった時にいつも起こるのは、「責任を取って職を辞せ」という内外の声と、「現職に留まって状況を好転させる事こそが、責任を全うするベストの方法だ」と反論する現職者の議論の応酬だ。私は、このどちらかが正しくどちらかが間違いだとは考えない。両者の考えを良く聞いて、ケースバイケースで、是々非々で判断するのが正しいと思っている。

しかし、私が今回語りたいS社とK氏のケースはこれには当たらない。K氏は既に代表権のない会長に退いており、実権は新社長にある。問題は、「経営悪化のインパクトはあまりに大きいから、K氏はその責任を取って全ての職責から退くべきだ」という意見と、「そこまでやる必要はない」という意見が拮抗しているようだという事だ。

結論から言うなら、私は、「そこまでやる必要はない」という以上に、「S社はK氏の能力と識見、更には国際的な人脈を、会社再生の一つの武器として最大限に使うべき」という意見だ。

「K氏が、代表権はないとはいえ『会長』として残ったり、『取締役』として残ったりするのでは、内外に対する示しがつかない」という意見は、尊重されて然るべきだと私も思う。

それならば、K氏には「特別顧問」の職を受けてもらい、社長を補佐する「最高経営会議(或いは経営諮問会議)」のメンバーを委嘱し、少数精鋭の特任チームが自由に使えるように取り計らい、対外的な交渉においては「全権大使」のような立場でその責に任じて貰うのがよいと思う。K氏の識見と活躍が功を奏して、もしS社が奇跡的な再生を成し遂げたら、将来はK氏の「会長」への復帰も当然あってよいと思う。

世界市場を相手にして、動きの早い業界をリードしていくには、経営者には何よりも「構想力」と「決断力」が求められる。空気を読みながら万事をそつなくこなす「調整型」の経営者ではとても生き残れない。しかし、「構想」は大きければ大きい程、「決断」は早ければ早い程、大きく間違う可能性も高くなる。

大きく間違えば、会社の存続自体が危うくなり、多くの社員を路頭に迷わす事にもなりかねないから、そういう可能性は少しでも小さくしたいのはやまやまだ。しかし、極言するならば、そういうリスクを負う事は、激しい国際競争に身を置く限りは、何れにせよ避けては通れない道なのではないだろうか?

K氏は技術者だが、それ故に「夢」があり、「調整型」の経営者とは対極にある人と見受けられる。その「構想力」故に、若くして頭角を現わし、社長に抜擢された。社長になってからは、その「決断力」を遺憾なく発揮し、大胆な大型投資を敢行した。しかし、不幸にして、それがほぼ軒並みに裏目に出た。

結果が悪かったという事は、要するに「判断を誤った」という事だ。そこには全く「言い訳」の余地はない。例えば、為替がしばしば「言い訳」に使われるが、これ程「言い訳」として当を得ないものはない。「為替」はどちらにも振れるものであり、経営者は、短期的な施策ではその都度何らかの「賭け」をしなければならないが、長期的には大きな「賭け」をしてはならないのだ。

S社の場合は、自社の技術の対する過信があり、「蓄積された技術の中身を『ブラックボックス』にすれば、長期にわたって競争優位に立てるし、『規模の利益』を十分に生かせば、国内立地のコスト的なハンディキャップも克服出来る」と考えた節があるが、ここには色々な見落としがあったと断じざるを得ないだろう。

有能な技術者は、生来「楽観的」であり、「一点突破的」な思考をする傾向がある。それ故にこそ、技術者として成功したのだ。しかし、大企業のトップに立った場合は、ここに偏るのは矢張り危険であり、或る程度のヘッジは必要だ。

通常は、社内の口うるさい「管理部門」や「長老」達が、最終的な決定権限を持つ若い社長をこの面から牽制するのだが、社長の能力が他を圧している場合や、社長のエネルギーが極めて強い場合、そして、環境が順風に見える場合には、この牽制はうまく働かない。

しかし、見通しに誤りがあり、結果が大きな失敗に終わったとしても、構想全体が誤っていたとは言い切れない。「ブラックボックス化」も、「規模の利益の追求」も、それ自体は戦略としては決して間違ってはいないと思う。勿論、ディスプレイのような場合は、完成品メーカーはセカンドサプライヤーやサードサプライヤーがいなければ不安だから、ブラックボックス化によって独占利潤を追求する事については慎重でなければならないが、これは信頼できるパートナーを選んで積極的に技術供与をする事で解決できる。

諸悪の根源のように言われているこの「構想」そのものついても、このような弁護をするくらいだから、その「構想」を練り上げて実行に移したK氏の「能力」自体を軽視する気持は、少なくとも私には全くない。抜きん出た「能力」というものはとても得難いものであり、安易に切り捨てるべきではないと、私はいつも考えている。

現在多くの人が指摘しているのは、日本の社会は一般に失敗に対して不寛容であり、それが日本でベンチャービジネスがあまり成功しない原因の一つであるという事だが、これは必ずしも若い起業家だけに当てはまる事ではない。敗者復活戦の機会は、若い起業家だけではなく、大企業の経営幹部やトップにも与えられて然るべきだ。

日本では、会社で職位が上がる事は、ステータスを得る事だと思われがちだが、私の考えは全く異なる。私は、職位が上がる事は「より大きな仕事に挑戦する機会が与えられた」事を意味していると思っている。それは「上がり」のポジションではなく、「始まり」のポジションだと理解されるべきだ。

多くの取り巻きに囲まれて祭り上げられ、しばらくは儀礼的な仕事に時間の大半を使い、やがて「在任中大過なく仕事をする事が出来た」という挨拶をして去っていくような人は、そもそもそういうポジションにつくべきではなかったのだ。

この事は、位人臣を極めた「社長」の立場でも同じだと思う。勿論年齢にもよるが、在任中の仕事に悔いが残っていれば残っている程、再挑戦の意欲を失ってほしくはないし、周囲ももっとそれに期待すべきだ。本人にとっては辛い事であり、「もう放っておいてほしい」と心の中で思う事もあるかもしれないが、そもそも「社長」というものは、本来そういう十字架を背負っているのだと覚悟すべきだ。

S社が未曾有の危機に直面している事は事実だし、当面の苦しさに堪えかねて技術や生産能力の切り売りをして、会社のアイデンティティーまで失ってしまうのではないかと危惧されているのも事実だが、そういう時こそ、抜きん出た「構想力」と「決断力」が求められる。

K氏は、自らの識見に「今回の大きな失敗から得た貴重な教訓」を加えて、全力を挙げて新社長を助け、新社長の「大いなる決断」を随所で勇気づけて欲しい。S社の抱えている問題は、K氏が持っているような「能力」と、その幅広い「人脈」を利用しないでも解決できる程、生易しいものではないと私は思っている。