東京電力ぬきでは電気事業改革は行えない

2013年07月03日 09:30

果たして政治主導で新しい電気事業政策を構築することは可能なのか。その実現へ向けた経済的および技術的な施策を作り実行する機能と能力が政府にあるのか。行政庁にあるのか。実は、日本の電気事業政策というのは、東京電力を頂点とした電気事業連合会体制によって担われてきたのではないのか。現実の問題として、未来の電気事業を構想する能力は、東京電力のなかにしかないのではないのか。


原子力事故のあと、東京電力の経営体質に関して、多くの批判がなされた。興味深いことに、批判の中心は、原子力政策における東京電力の絶大なる影響力にあったといっていい。つまり、東京電力の側に原子力発電に関する経験と知識が偏在していたがゆえに、原子力政策そのものが東京電力の事実上の影響下にあったため、誰も東京電力を監視・監督できなかったことが事故の原因とみなされているのだ。これは単に原子力発電についてのみ当て嵌まることではないはずであって、電気事業の全体について、同様の状況にあったと思われる。

しかし、なぜ、情報や知識が東京電力側に偏在していたことをもって、東京電力が批判されなければならないのか。そのような状況を招いたのは、政府が、原子力政策を含む電気事業政策の全体を、東京電力以下の電気事業連合会加盟各社に丸投げしていたからであって、原子力事故の責任を含めて、電気事業政策の問題についての真の責任は、そのような政府の手抜き行政にあるのではないのか。原子力発電については、そもそも国策としての原子力発電を民間の電気事業者に行わせたことから、国策であるにもかかわらず、政府側に原子力発電に関する経験と技術の蓄積が行われなかったのだ。

国策を民間事業者に行わせること、国策として民間事業者を育成することは、特におかしなことではないが、原子力発電のように高度な規制と監視が要求される分野については、事前に注意深く制度設計をしておかなければ、おかしなことになる危険性も自明であったと思われる。これも事故後に指摘されたことだが、東京電力を規制・監視する立場にあるべき政府部門が、逆に東京電力によって絡め取られ操縦されていたという状態は、政府が民間に丸投げする形で原子力発電を推進してきたことの当然の帰結であったはずだ。

事故後の各種調査報告書は、基本的な事故原因を政府の規制・監視機能の欠陥に求めているのであって、現象面として、その欠陥の裏にある東京電力の隠然たる力や不遜で傲慢な態度を批判していたとしても、それは国民感情迎合的で政治責任回避目的の文学的修飾にすぎない。政府も世論も、東京電力を怪物的な黒幕の悪者に仕上げようとしたが、仮に東京電力がそのようなものであったとしても、東京電力をそのようなものとして育て上げたのは、当の政府である。政府が高度に技術的なことも含めて、全てを東京電力に任せたがゆえに、東京電力を管理することができなくなったのだ。そこに、政府の大きな責任がある。

現実の問題として、電気事業改革の中核的な担い手となりうるのは、現在の東京電力に集積されている人材である。その人材に体現されている知識・経験・技術なしには、改革は行えない。もはや国有化された東京電力なのだが、それでも、東京電力(法人はなくなっても、そこに帰属した電気事業の専門家の人々)を中核とした電気事業改革以外には、方策はないのではないのか。

今、その東京電力から、人材が流出しているそうだ。国民迎合的政治家は、そうして、電気事業改革を担う人材が外部化することで、改革が実現されるのだと主張するのだろうが、はたしてそうか。電気事業を支えてきたのは、個人の知識や経験ではなくて、組織としての知識と経験ではなかったのか。改革は破壊ではない。改革の前に旧制度の破壊が必要だとでもいうのか。そうだとしても、その破壊された基盤のうえに新しいものを再生させる力は、破壊されたもののなかにあるのではないのか。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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