志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」的な価格騰貴

森本 紀行

志賀直哉の小説に「清兵衛と瓢箪」というのがある。清兵衛という瓢箪好きの12歳の小学生が、10銭で手に入れた形の良い瓢箪を丹精して磨きあげる。学校へ持ちこんで磨いているところを先生に見つかって、瓢箪を取り上げられる(もちろんただで!)。先生は瓢箪を小使いの老人へ呉れてやる(やはりただで!)。老人は、それを骨董屋に50円で売る。骨董屋は、それを、なんと600円の高値で金持ちに売る。10銭が600円!志賀直哉には失礼なのだが、敢えて、文学的にではなく経済学的に論じるならば、6000倍という驚異的な騰貴率、あるいは価値の成長率があり得ることを、この小説は教えているのである。


では、この利潤源泉は何か。第一に、それは本源的価値の見極めである。この瓢箪、清兵衛が偶然に見つけて、「一見ごく普通な形」ながら、「彼には震いつきたいほどにいい」、と感じたものなのである。一見普通なもののなかに真の美的価値を発見する能力が、清兵衛にはあった。また、一目見て、瓢箪の価値を値踏みした骨董屋の目利きもまた、見事といわざるを得ない。この場合、いうまでもなく、600円への騰貴に一番貢献したのは、骨董屋の目利きなのである。

第二の源泉は、素材から始めて丹精して完成品を作る過程にある。清兵衛は「古瓢」には関心がなかった。「まだ口も切ってないような皮付き」を買っては、口を切り、種を出し、栓を作り、臭みを取り、酒を含ませては、丁寧に磨きに磨いたのである。この丹精が、目利きの見出した逸品の素材に加えられたとき、6000倍の利潤率が実現したのだ。素材の目利きだけでは、充分ではないのである。

そして、第三の源泉は、骨董屋の抜群の取引能力であろう。ほとんど瞬間的な情報の非対称性をつく、きわどいながらも、熟練者だけに可能な取引の技術であり、投資の機会を捉える能力である。具体的には、骨董屋は、これくらいの逸品ならば金を惜しまない金持ちの愛好家のいるということ、その情報力に基づく確信をもっていたのだ。一方、売りにいった小使いの老人には、その情報力がない。あれば、骨董屋など通さずに、そこに直接に売りにいくであろう。そもそも、小使いの老人には、瓢箪の価値(および価格)の相場感がない。骨董屋にはそれがある。

この小使いの老人と骨董屋の間にある、本質的な情報の格差、情報の非対称性が、骨董屋が叩出した550円の利潤の源泉なのである。しかし、骨董屋の力は、情報力だけではない。実は、情報力以上に大事なことは、小使いの老人から50円で瓢箪を買い取ることのできる資金力である。売るためには買わねばならない。取引を成功させるには大きな資本が要るのだ。

さらには、度量、思い切りの良さも必要だ。50円で買っても、いくらで売れるかは保証の限りではない。にもかかわらず、自分の価値判断を信じて躊躇なく50円を払う。この度量が最終的に取引を成功に導いた鍵なのである。投資の成功には、常に、確信が必要なのだ。

要は、この骨董屋の投資を見事な成功に導いたものは、価値判断力(目利き)、情報力、資金力、度量、この四要素の不可分の結合だったのである。一代で財を成した歴史上の風雲児の人物像は、例外なく、こうした要素を兼ね備えていたのだと思われる。

しかし、600円という価格は、骨董屋の能力だけで、生まれたものではない。そもそもが、清兵衛の素材の目利き、および清兵衛の磨く努力と修練が作り出した瓢箪の本源的価値が、基礎になければならない。つまり、600円という価格は、清兵衛が創出した瓢箪そのものの価値と、骨董屋が創出した機会を巧みに捉えた取引技術に基づく価値以上の価格、この二要素に分解できるのである。

価値のない瓢箪からは、さすがに利潤は生まれない。どのような巧みな取引も、もしも、社会的に許容され、かつ利益を生むものだとしたら、それは、価値の上にしか成り立ち得ないのだ。では、瓢箪の価値は、何が生み出したのか。それは、清兵衛が素材に投資した現金10銭と、彼が磨きに使用した若干の残り酒(原価はただ同然)と、彼が磨きに投入した労働のはずである。つまり、価値は、原価と労働で構成される。

ただし、清兵衛が付加した価値の全てを、磨きという単純な労働だけには、帰し得ないであろう。労働の性格、磨きの技量が完全に清兵衛と同じであっても、形の悪い素材に加えられた労働は、明らかに価値を生まないだろうからである。原初における、形を見ぬいた清兵衛の目利きの貢献も、決して小さくはない。

基本的に、原価に価値を付け加えるのは、人間の働きなのである。しかし、その働きを、労働という言葉で呼ぶのは、必ずしも、適切ではない。清兵衛の目利き的な、知的な、あるいは感性的な働きが、多くの場合、重要な役割を演じているのである。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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