「選ぶ」ということ~選挙を考える --- 佐藤 正幸

2013年07月09日 10:22

選択の機会が与えられているということはとても幸せなことだと思う。職場の上司、独裁政権の大統領などは選べないことから悲劇が始まる。

前民主党政権のように選ぶことからも悲劇は生まれるが、選べない悲劇に比べれば能動的な悲劇だろう。国民は確かにあの日選んだのだから。民主党が選択された第45回総選挙の投票率は69.28%なので10人に7人が投票に行って選らんだことになる。

選んですらいない、だけど悲劇が生まれることのほうがよっぽど悲劇である。


選んだ以上は選んだ責任が生まれるが、選んでいない以上何も生まれない。何も生まれないから社会参画意識というか、何かに対して責任を持つということが生まれない。選ぶということは責任感を培う上では非常に重要な行為なのだと思う。

例えばこういう見方もできると思う。独裁国家の国民は往々にして独裁後それぞれが勝手なことを始めて国がめちゃくちゃになる。そもそも社会に対して責任を持つということがなかったから。そういう習慣がなかったからだと思う。

例えばこういう見方もできると思う。結婚も一つの選択だ。多くの男性陣(女性陣もかも知れないが)は相手をよく選んで結婚する。だから多くの男性(女性)は自分の時間や命と引き換えに相手を守る。選択が責任感を生むのだ。

拙稿「ポスト自民党再考~投票のその先へ」では投票に行っておしまいと言う時代は終わった。国民の側も政治や政治家に対して理解を示し、政治の側も歩み寄ることが大事だとお伝えした。その上で国民自身が投票よりその先のコミットメントを大事にするべきだとお伝えをした。

そもそもこの国の国民は投票という選択行為を行う人が少ないのだが、投票によって生まれるはずの責任感が、投票に行って後は政治家任せという「責任転嫁」になってしまっている。

本来「選ぶ」という行為を通じて責任感が養われ社会参画を促進してゆくことになるのだが、選んだ後で責任転嫁をしては社会参画への意識が育つはずなどない。選んだはずの政治家はいずれ都合よく悪者になり、都合のよい時には英雄になる。

やはり「選挙に行っておしまい。政治家頑張れ」というこの責任転嫁に一番の問題があると言える。確かにこの国の制度は代議制(間接民主主義)を採用しており、国民は国民の代表者を選ぶことで政治に間接的に参加し、政治に民意を反映させるという仕組みの中で生活している。

しかし、代議制は選んだらおしまいという仕組みではないだろう。選んだ後も問題だと思えば投票した政治家の事務所に行って直接話をしてきてもよいし、自身でNPOを立ち上げ社会に広く訴えかけることで世論を動かし、政治家の動きに影響を与えることだって今の日本では可能だ。そんな時間など物理的にない人も何が政策課題なのかくらいは考え、政治家の動きをウォッチくらいはして欲しい。

選んだ後を考えることのほうがはるかに重要なのだ。そして、そもそも選べるということ自体、非常に貴重な選択肢を与えられているのだ。

職場の上司を思い浮かべてほしい。なんでこんなやつの下でと思うような上司は下からの直接投票でリコールすることはできないし、そもそも選挙で選べない。選択できないのだ(外資はそうではないかもしれないが)。

職場の上司で悔しい思いをしている人にこそまずは投票に行ってほしい。ここで投票に行かなければ職場の上司と一緒でわけの分からない嫌なやつが代表になっても文句が言えないだろう。日本の未来が争点の貴重な機会でわざわざ職場の悔しさを再現することなどない。

まず投票に行く。その上で責任転嫁することなく、投票した候補者をフォローして欲しい。この政治家おかしいなと思ったら選挙の結果にも責任を感じる。継続してウォッチすることで責任感を感じ、次の選挙につながる。

選挙が活発な社会こそが、責任感のある社会なのであって、責任感ある社会こそが民主主義に最も必要な社会だ。選挙に行く。そして更に「責任転嫁」し政治家を悪者にする姿勢を改めない限り真の民主主義は根付かない。

選挙に行ったって何も変わらないと棄権するそこのあなた。その行為こそが社会への責任感の欠如であり、究極の責任転嫁なのだ。あの時選挙に行っていないから。いつまでこういう言い訳を続けるのか。社会がぐちゃぐちゃになってからでは遅い。明日の責任は今の私たちの選挙にあるということを忘れてはいけない。

佐藤 正幸
World Review通信アフリカ情報局 局長
アフリカ料理研究家、元内閣府大臣政務官秘書、衆議院議員秘書

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