「三貫文は、世にとどまりて、人のまわり持ち」的な経済理論

森本 紀行

時は鎌倉時代、青砥藤綱という武士が、ある秋の夜、鎌倉の滑川を渡った際に、ちょっとした拍子に、十銭ばかりの小銭を川中に取り落とす。藤綱は、人足を集めて三貫文を与えて、落とした小銭を探させる。すると人足の一人が、うまいこと見付け出す。


藤綱、喜ぶことかぎりなく、この男には、別に褒美をとらせて、「これをそのまま捨置かば、国土の重宝朽ちなんこと、ほいなし。三貫文は、世にとどまりて、人のまわり持ち」といって、立去る。人々は、「一文惜しみの百しらず」といって、藤綱の行為を笑う。

念のため解説するが、「一文惜しみの百しらず」というのは、落としたお金の千倍くらいの費用をかけて、落としたお金を探す愚をいっているのだ。また、藤綱の「これをそのまま捨置かば、国土の重宝朽ちなんこと、ほいなし。三貫文は、世にとどまりて、人のまわり持ち」という発言は、「落としたお金を、そのまま捨て置けば、それだけ国の資産が失われるのだから、不本意である。一方、人足に支払われた三貫文という大金は、世に流通して無駄にはならない」という意味である。

人足達は、思い掛けない利得に喜んで、酒宴を始める。その席で、小銭を発見した男が、あれは嘘で、本当は自分の手持ちの小銭を見つけたように装って差し出しただけだと、自分の悧巧さを自慢する。それを聞いた一人の人足は、その不正に反対して席を立つ。

その後、ことの真相は、自然と藤綱の耳に入る。藤綱は、騙した男を見付け出し、厳重に監視を付けて、今度は丸裸にして、探させ続ける。季節は秋から冬に変わって、開始から九十七日目、ついに小銭全てを見付け出す。正論を吐いた人足も探し出されるが、よく調べてみれば、それは武士の出ながら、分けあって民家にいたものであることがわかり、これを機に、再び武士に取り上げられる。

これは、井原西鶴の「武家義理物語」の中にある「我物ゆえに裸川」という話である。いたって短い話の割には、多岐に論点が及ぶ。整理すれば、以下の三点に帰着するであろう。

第一は、「これ、おのれが口ゆえ、非道をあらわしける」とあるように、悧巧振りを自慢して自ら悪事を露見させた人足に対する、「口は災いの元」的な通俗的教訓。

第二は、正論を吐いた人足について、さすがに侍身分のものは、身をやつしていても志が違うという、身分制秩序論。

第三は、一見すれば「一文惜しみの百しらず」的な愚行にしか見えないことの背後に込められた、青砥藤綱の「三貫文は、世にとどまりて、人のまわり持ち」という、高度な経済理論。

第三の経済理論は、一見して、高度な資本の循環論であり、ケインズ的な財政積極策である。実際、日本の公共投資の相当程度は、必ずしも必要性がはっきりしていなくて、意味不明の藤綱の行動に近いものであった。ところが、直接的な効果や意味とは別に、投下された巨額な資金が、「世にとどまりて」、国民間に「まわり持って」、経済の拡大的再生産につながることが想定されていたのだ。その限り、何ら藤綱の言説と異ならない。

酒宴を通じて消費経済に投下された三貫文は、景気浮揚効果をもたらしたかもしれない。しかし、藤綱の行為において再生産されたのは、資本ではなく、武士支配を支える身分制秩序だったのである。人足に身をやつしていた侍が、再び正式の武士に取り立てられたのは、非常に象徴的だ。

実のところ、日本の公共投資も似たようなものだったのだ。巨額な公的債務の累積を残した結果として、一定の経済効果があったことは否定し得ない。しかし、借金と並んで残された利用価値を疑問視される無数のハコモノ、道路、空港、港湾などなどは、一体、何だったのか。要は、旧態依然たる支配の秩序を守ること、それが目的だったのかも知れないではないか。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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