憲法改正議論のあるべき姿

松本 徹三

ネット上で盛んに議論されている参院選に関連するテーマは、一に「原発」、二に「憲法改正」だそうだ。私は、それ以上に、「アベノミクスの矛盾の修正(出口戦略)」、具体的には「成長戦略」と「財政破綻の防止策」が論じられて然るべきだと思うのだが、その事はまたの機会に譲るとして、今日は「憲法改正」の問題のみに焦点を絞って、少し語らせて頂きたい。

憲法改正に関する議論を聞いていて何時もがっかりするのは、改憲派、護憲派とも、それぞれ本質を外した議論しかしていない事だ。


改憲派について言うなら、「米軍占領下においてGHQの民政局が短期間で書き上げた現行憲法を、独立国となった現在の日本がなお維持している事自体がおかしい」とする考えと、彼等が主張する主な改正点(特に第9条の問題など)とが、混ぜこぜになって論じられているのが問題だ。

一方、護憲派について言うなら、第9条の問題を含め、自民党等が主張する改正点に反対なのなら、その事を主張すればよいし、自らも現行憲法では不十分と思う事があれば、どんどん改正案を出すべきなのに、「ダメなものはダメ」というような子供にも受け入れられない議論をしているのが大問題だ。これでは、現行憲法の96条に「改正には2/3が必要である」事が定められているのをいい事に、「国民の過半数が求める事」も、平気で無視しようとしていると言われても仕方があるまい。

自民党は、かつての鳩山一郎首相時代から一貫して憲法の早期改正を主張してきているが、これまで一度たりとも2/3の壁を破る事が出来ず、現在に至っている。一方、第9条などの変更に反対する勢力も、流石に「占領軍が起草した憲法を未だに有難く押し戴いているのか」と言われるとバツが悪いのか、かつての日本新党の「護憲的改憲」や、民主党の「論憲」「創憲」、更には最近の公明党の「加憲」まで、色々な議論があったし、今もあるようだが、どれもあまりパッとしない。

私自身は、勿論、「憲法改正は当然するべき(遅すぎた)」という考えであって、第9条の「解釈」で無理に辻褄を合わせている「自衛権」についても、「事勿れ主義に終止符を打ち、条文を書き換えて明確にすべき」という考えだ。

しかし、言いたい放題の石原慎太郎氏のような、国益を度外視する人は論外にしても、安倍首相を含めた改憲論者の多くが、昔の日本を懐かしむ「国家主義」の傾向を色濃くにじませているのには、私は大きな懸念を持っている。「改憲イコール右傾化」と見做されれば、日本人にとっては至極当然な事である「改憲」が、中・韓のみならず米国にも不安を抱かせる事になり、最終的には日本の国益を害するに至るように思うからだ。

中・韓が大嫌いな右翼系の人たちも、日本の安全を守る為には、結局は「日米同盟の強化」に頼るしかない事は承知しているようだ。それなのに「現行憲法は米国の押しつけだ」等と言って、不必要に米国を悪者にしているのは、滑稽であるだけでなく卑怯千万と言わざるを得ない。

日本の現行憲法成立の経緯などについては、「石原知事に期待するものは何もない」と題した2012年1月2日付の私のアゴラの記事をご参照頂きたいが、大日本帝国は、最後まで拘った「国体の護持」を結局は断念して、「無条件降伏」を受け入れたにもかかわらず、マッカーサー司令部から新憲法の起草を託された松本委員会(全員が日本人)は、結局は「国体の護持」をベースにしているかのような案しか作れなかった為に、急遽、米国側が直接文案を起草する羽目になったわけだ。

これが気に入らないのであれば、サンフランシスコでの講和条約の締結後に直ぐにこれを改正すれば良かったのに、これをしなかったのは他ならぬ日本人自身だ。具体的に言うなら、国会で1/3以上の議席を占めてきた社会党や共産党が反対だったから出来なかったのであり、別に米国が圧力をかけた訳ではない。

さて、現在のちぐはぐな議論を整理し、諸外国の懸念を払拭する為に、私は次の事を提案したい。

先ずは、国会が「憲法について『議論』する事の必要性を認め、この為の委員会を設置して、期限を切って提言を行う事を求める」旨の決議を、出来れば全会一致で採択する事である。この決議案の提案理由としては、「現行憲法が自国の国民の手によって起草されたものではないという事実は、独立国として異常である」という事だけで足り、それ以上の理由は必要としないだろう。

次に、改正論者は、先ず「前文」についての案を提示した上で、然る後に「主たる改正点を箇条書きにしたもの」を提出すべきである(勿論、何通りかの案が出されるべきだし、「現行憲法は一言一句変えるべきでない」という意見があれば、その意見も併記するべきだ)。

現在の日本国憲法の「前文」は、英語の原文を訳したものだから、勿論日本語としてはおかしい点は多いが、石原氏が言うほど「醜悪」だとは思わないし、別に間違った事も言っていない。例えば、石原氏等が目の敵にしている可能性のある下記の文章に注目してみよう。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。」

成る程、これは日本語としてはかなり酷い。そして、日本国民が平和を愛するとしても、世界の他の「諸国民」が同じように平和を愛して、「公正」と「信義」によって行動するという「保証」はなく、従って、単純にこれを「信頼」して、自国民の「安全と生存を保持」しようと「決意」するわけにはいかない。だから、福島瑞穂さんのように能天気に生まれついている人でない限りは、最低限この部分は書き変えなければならない事に、異論を持つ人はそんなにいないだろう。

それなら、どう変えれば良いのか? それこそが問題だ。私ならこう書き変える。

「日本国民は、強い決意を持って自らの主権を維持すると共に、他国の主権も最大限に尊重する。過去においてこのような決意が不十分であった事については深く反省し、同じ過ちが繰り返される事がないように、決意を新たにする。また、日本国民は、恒久の世界平和を強く念願する。他国の人々が公正と信義の原則に基づいて種々の問題を平和的に解決しようとする限りは、このような人々と連携して、世界の諸国民が戦争の惨禍に苦しまずに済む様に、最大限の努力を惜しまない。」

右翼系の人たちはのけぞり、私に罵声を浴びせるだろう。そして、「これでは改悪だ。何でそんな事まで言わなければならないのか」と、特にこの前半部分に強く反発するだろう。しかし、私は、逆にその人たちに問いたい。「この文章のどこに不都合があるのか?」「日本人の50%以上が、果たしてあなた方と同じようにこれに反発するだろうか?」

丁度この文章を書いている時に、別府慎剛さんという僧侶の方が7月14日付でアゴラに寄稿された憲法論を読ませて頂いたが、失礼ながら、私にはこのような憲法論こそが最も的外れで、且つ危険な議論のように思えた。

現代の民主主義国家においては、「立法」と「行政」は国民が選挙で選んだ人たちが行う事になっており、従って、このベースとなる憲法も、国民の合意によって起草されるべきは当然だ。それが仮に如何に稚拙なものであったとしても、それを超える理念はあり得ない。「国家には本来の存立理由があり、国民たるものはその国家と一体でなければならない」とするのは、かつてのドイツ哲学を思わせる「根拠のない観念論」に過ぎず、そんなお説教は最早聞きたくもない。まず人々がおり、その人々の集合を「国家」と呼ぶのであり、その逆はあり得ないのだ。

さて、国民は何を望むのだろうか? 「自由」や「基本的人権」、「安全」や「公平性」が望まれる事は想像に難くないが、私は、これに加え、「諸外国から敬意を払われ、諸外国と平和的に共存出来る」事を強く望む。現在の世界においては、最早自国だけが孤立しては存在出来ないからだ。従って、我々が制定した我々の憲法が、諸外国に危惧を感じさせる事は極力避けたい。

「敗戦」という特殊な事情があったにせよ、現行憲法は、「平和憲法」と呼ばれる程に「平和への希求」を前面に打ち出している。従って、その内容を変えるにあたっては、それが「平和への希求」を否定するものでは決してない事を、格別丁寧に示すべきだ。だからこそ、私は、第9条等を書き変えるなら、私がここで提案しているような「前文」とパッケージにすべきだと考える。そのようにしてこそ、あらゆる誤解を避ける事が出来、米国を含む諸外国の理解も得られ易くなると考えるからだ。

ここで私は重ねて言いたい。右翼系の考えを持った人たちといえども、「かつての日本が、欧米諸国に倣って『帝国的な拡張政策』を取り、これを実行する為に、他国の主権を踏みにじる『侵略行為』を行い、これによって近隣諸国の国民に『大きな苦しみ』を与えた」という事実は、潔く認めるべきだ。それが全ての出発点であり、ここを曖昧にしては何も前に進められないからだ。

いつも申し上げている事だが、ドイツと異なり、現在も当時と同じ国旗と国歌を使っている日本の現状が、近隣諸国に「誤解と懸念」を与えかねない事については、我々は常に十分に配慮するべきだ。私自身は、他の多くの日本国民と同じように、「日の丸」と「君が代」を愛し、憲法で定められた役割を真摯に果たして下さっている天皇陛下と皇室の方々を崇敬している。だからこそ、この事が誤解を受けないように、諸外国に対しては可能な限りのあらゆる配慮をしたい。それが出来ない人たちは、「自分の事しか考えられない子供」と一緒だと思えてならない。