靖国神社参拝と「死者の権利」 --- 長谷川 良

アゴラ

生前ナチ・ハンターと呼ばれ、戦後も逃亡したナチス軍指導者たちを執拗に追跡したサイモン・ヴィーゼンタール氏(1908年~2005年)と2度ほど会ったことがある。どうしても聞いておきたいことがあった。「なぜ、戦争も終わったのにナチス軍幹部たちを追跡するのか。相手を許すという気持ちにはなれないのか」という質問だ。


ヴィーゼンタール氏は「生きている者が死人に代わって誰かを許すことはできるのか。許せるとすれば、それは死んだ人間だけができることだ」という。だから、逃亡するナチス指導者をとことん追跡して法の前にひっぱっていくのが自分の仕事だと説明した。同氏から「死者の権利」を学んだ。生きている人間は死んだ人間の権利を蹂躙してはならないということだ(「『憎しみ』と『忘却』」2007年8月26日参考)。

あれから長い時間が経過した。当方は靖国神社の参拝問題について考えている。韓国と中国は「侵略戦争の手先となった人間が葬られている神社を日本の首相が参拝することは当時の戦争を美化するもので許されない」と批判する。中韓の主張に迎合するように、日本の一部メディアは参拝する日本の政治家を批判的に報道してきたのがこれまでの経緯だろう。

当方は「誰も参拝を受ける死者の権利を奪うことはできない」と考えている。既に亡くなった人間の悲しみ、痛み、恨みを過小評価したり、ましてや批判できる権利を有している人はいるだろうか。「お前の死は犬死だ」と誹謗できるだろうか。「お前は戦争犯罪に関与した」といって、その死者を審判できるだろうか。

生きている人間が死者に対して唯一出来ることは、死者の前には頭を垂れて祈ることだろう。韓国の独立の為に犠牲となった人物の前にも、日本軍の1兵士として若き命を散らした学徒兵に対しても同じだ。

繰り返すが、「お前は日本軍の蛮行に関与したので価値のない死だ」、「お前は韓国の独立を叫んで死んだから、民族の誉れだ」といえるだろうか。死者の価値を審判できる人間は1人もいないのだ。

死者は、生きていた時の国家とか、民族といった地上の”衣”を久しく捨て去っているのだ。1人の死者として地上の人間に暖かく思い出してもらえることを願っている。このささやかな死者の権利を政治的な思惑などで奪うべきではないだろう。

数年前、「千の風になって」という歌が大ヒットした。その歌詞の中に「私はもうそこにはいません」という部分がある。その通りだ。墓や神社に死者は眠っていない。死者は時間と空間の束縛のない世界に住んでいる。生きている人間が亡くなった人を思い出す時、死者はそっと近づきその祈りに耳を傾ける。

政治家の靖国神社参拝問題で日韓中の3カ国が騒がしくいがみ合うことは滑稽だ。どうか、生きている人間の権利を重視するように、死者の権利を尊重し、頭を下げて祈って欲しい。死んだ人間は祈る人間の真心に癒されるのであって、祈る人間が1国民(私的人間)なのか、総理大臣かは問題ではない。それに拘るのは生きている人間だけだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年7月26日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。