法制局長官人事:改憲は姑息な手段をやめ、万機公論に決すべし

2013年08月11日 10:01

朝日新聞は、今回の法制局長官人事を安倍首相が集団的自衛権の行使容認に向けた環境整備対策だと捕らえ、元長官の阪田雅裕氏の「法制局が今まで蓄積してきた決定はは全部間違っていたということが、果たしてあっていいのか」と言う言葉を引用して安倍首相を批判している。

この朝日の記事に限らず、多くのマスコミは内閣法制局長官を「憲法の番人」等と煽てているが、これは法的根拠もないとんでもない話である。

現に、憲法第81条は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」をで最高裁判所に賦与しており、立法の占有権は第四十一条 で国会に所属すると規定し、内閣法制局はどう見ても「内閣の下で法制についての事務を行う機関」に過ぎない。


この点に関する限り、内閣法制局長官の国会答弁を禁止した小沢一郎氏の主張は正しい(国益を損なう言動の多い同氏だが、時々目の覚めるような正論を言うのも小沢氏の特徴である)。

何故、こんな酷い慣行が続いて来たのか? これは私の見る処、内閣法制局見解が、マスコミの内閣批判と、政府の責任回避に都合が良かった事にある。

もう一つの原因は、衆参両院と内閣にある法制局を「 Legislation Bureau」と英訳した為に「Legislation」を通常の「立法」と言う意味と混同しやすく、これは、米国の様に所属機関を明記した上に「Office of Legal Counsel(法律顧問室)」と改訳すべきである。

法制局長官の人事と並んだ憲法改正環境の整備の一貫に、96条の改正による手続き緩和先行の話があるが、その前にしなければならない事が山程ある。

その一つは「日本国憲法の改正手続に関する法律施行規則」と言う膨大で複雑な規則の改廃である。

96条の改正は、権力側の国会議員や政党にとっては発議が簡便になったとしても、国民側から見れば、この法律施行規則の障害の高さの方が大問題である。

この規則は、全て権力側である行政の都合の良い様に書かれており、国民の居所や健康状態による差別を始め、現行憲法第三章 「国民の権利及び義務」の規定に違反する疑いが目白押しで、即刻改正し簡素化して欲しい。

又、憲法改正の国民投票がどの項目の何に対して、如何なる形で投票されるのかも不明で、国民投票の整備は全く出来ていないのが現状で、これ等を整備する事が先決である。

新憲法は国家の百年の体系を定める基本文書であり、深い洞察力,と先見の明に裏付けられた国家理念を反映し、国家が今後遭遇するであろう想定外の個別的な試練に耐えられる柔軟性も具備したものでなければならない。

今、重要なのは、今後の我が国を導く原理と基礎理念の設定であり、その為には、憲法を「最高法規」と位置つけるか、「国家の理念を規定した最高の章典」と見るかの論議から始める必要がある。

欧米の傾向を見ると,時代の変化に追いつき難い「最高法規」と見做すより、柔軟で幅広い理念を定めた「最高章典」と見做す傾向にあると思える。

憲法を国家のフレームを定めた「最高の章典」として扱う米国の例を見ると、以下の6項目を基本的理念として定めている。

(1)国民主権
(2)公権力の制限 
(3)公権力の分散(アメリカの場合は三権分立)
(4)チェックアンドバランス(司法の象徴である天秤と同じく、権力の集中・専制を防ぎ, 政治の健全な運営をはかるために工夫された原理)
(5)違憲立法審査( Judicial Review)
(6)連邦主義(州権を尊重した地方分権、強い道州制とも言えよう)

この観点から、現行憲法は「アメリカの押し付けだから、日本人の手で変えるべき」と主張する自民党が、どの様な基本理念を盛り込んでいるのか、興味を持って改正草案を読んでみたが、そのお粗末さに愕然とした。

要するに、「現憲法のコピペ修正」に過ぎず、自民党独自の理念や原則などは影も形も見えない酷い出来である。

現憲法に加筆して、海外派兵を容易にする規定を設けた事の是非は別に論議するとして、中でもお粗末なのは、自民党の信じる道徳を憲法で国民に強制した事や、「家族は互いに助け合わなければならない」とか「家族は仲良くしなさい」と言う規定を憲法に盛り込んだ事である。

これでは、家族の助け合いが無ければ生活保護は支給しないと言う解釈も可能であり、国民の最小単位を個人に置くのか、家族に置くのかも鮮明とせず、他の規定との矛盾も起こる。

「不仲の家族は憲法違反」だとは笑わせるが、この項目は、法律は家族に立ち入らずと言うプライバシーの原則も無視した事になる。この草案は、内容がお粗末と言う点では、世界でも頂点に立つ草案だと言っても過言ではない。

草案の中で見逃せないのが、現行憲法で保障された「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」の規定に「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」と言う但し書きをつけて、先進民主国家で犯すことの出来ない国民の基本的な人権と見做されている「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を大幅に制限した事実である。

「公益」「公の秩序」についての厳しい定義も無しに、このような制限規定を設けた事を知ると、この草案が中国か北朝鮮の憲法をコピペしたのでは? とすら思える。

96条改正により、抑制される側の筈の国家権力が憲法を変えやすくした結果が、自民党草案のような「国家権力を拡大し、国民の権利を抑制」する全体主義的な憲法の誕生につながるのでは、憲法改正論者の私でも承服できない。 

何事も動きの鈍い日本に不安を覚え、憲法改正手続きの簡素化により日本の変化を後押しする方向に傾いた事もある私だが、憲法改正論者の相次ぐ右翼的発言とその後の発言撤回を見て来ると「憲法は権力者たちを縛るもので、変えるには、法律よりも厳格な手続きが必要だ。その時々の政治の多数派によってクルクル変えさせてはいけない。」と言う慶応大学の小林憲教授の主張の正しさを実感する。

現在の政治環境を考えれば考える程、憲法改正は手続き改正を先行させると言う姑息な手段ではなく、正々堂々「万機公論に決すべし」である。

「憲法理念」から始まる国民的論議の推進が、憲法改正改正環境の整備の王道である。 

2013年8月10日 北村隆司

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