「空気」とトリアジ --- ヨハネス 山城

アゴラ

福知山の露店火災、救助組織の大活躍にもかかわらず、死者が出てしまったの残念な話やったが、この事故で懐かしい言葉を聞いた。トリアジや。戦場や大規模災害で、救助や治療の体制に余裕がないときに、仕事に優先順位をつける手法のことや。

幸いなことに、戦後の日本ではこういうことが必要な場面はほとんどなかった。むしろ、最近では、金融恐慌時の公的資金の使い方なんぞの話題で使われるのを見たことがある。「金融政策のトリアジにより、GMは救済リーマンは見殺し」てな使い方やな。


日本人の口からトリアジという言葉が出てくるのを、ワシが初めて聞いたのは、神戸の震災に関するある研究会やった。あのころは、「震災」というテーマでさえあれば、地震予知、地質・建築から、救助、医療、心理、など、いろんな分野の専門家が集まる、ちゃんこ鍋タイプの会合がいっぱい開かれていた。今にして思えば、他分野の知見や発想を勉強するエエ機会やったと思う。

このころ、医療関係者の口からトリアジという言葉が盛んに出てくるようになった。それまでは、幸いなことに、患者に優先順位をつけなあかん状況というのが(厳密に言えば日常的にある話なんやろけど)、露骨に表れることがなかったが、震災を気にこういう議論をしておこう。という訳やな。

しかし、「生存可能性のない患者は見殺しにしても、少しでもチャンスのある患者を優先する」という発想は、1995年当時の現場系の研究者からは典型的な机上の空論として、冷ややかな目で見られた。少なくとも日本の場合、ちょっと待てば応援が来るのやから、「死にそうなヤツから順に手当てして時間を稼ぐ」という発想のほうが現実的やというわけやな。

中には、露骨に発表者をバカにして「トリアジかブタ味か知らんけど、そんなアホな思想を現場に持ち込んだら、真っ先に生存可能性が消滅するのは、センセ自身やで」と、心ないコメントを投げつけ、学会会場に黒い笑いを持ち込む者までいた。

ワシとして(やっぱりお前か)、天下りで被災地に来た人間に変なことせんといてほしいと言いたいだけやったんやけどな。

その後、子供の親という立場の人間が集まる場で、この話をすると、「瀕死のオレの子供を見殺しにしてみい、その場で医者をブチ殺したる」「病院ごと焼き払ってまえ」というような、元気いっぱい声が、ワシの住むような上品な地域では圧倒的やった。

ちなみにワシとして、こういう感情的な反応は支持できん。「鶏味」病院へ行く時には事前にちゃんと武装していくつもりや。うまくいけば、平時より迅速に効果的な治療を、しかも無料で受けられる。これで全部OKや。

この話が怖いのは、トリアジの思想も、武装患者の思想も、どちらも合理やということや。「少しでも多くの患者の命を救いたい」という公共の思想と、「自分の子供は自分で守る」という思想との優劣は、論理だけでは絶対につけられん。

サンデルせんせに付けてもろた優先順位でも、現場では3秒で吹っ飛ぶ。「個人的な感情を犠牲にしても公共の価値を守るのが市民の義務です」というような正論は、大阪名物土曜授業の「道徳の時間」ででも、ゆっくりと語ってもらうことにして、ここでは少し問題を一般化してみるで。

被災地医療の問題だけなら、この問題を解決するのは、そう難しい話ではない。確実にトリアジが行われるよう、被災地では医療者が武装するようにしたらいい。実際、諸外国の被災地では、これがスタンダードや。

そやけど、一度これをやってしまうと、一気にモラルハザードが拡がる。診療所で「力による支配」を目の当たりにした被災者は、食料配給所や給水所にも、可能な限りの武器を持ち込むことになる。それに、目の前で子供を見殺しにされて、医者と差し違える(筋違いもええとこやが)覚悟の親には、どんな暴力装置も機能せんやろ。

阪神淡路のときも、東日本のときも、日本人の利他的で秩序だった行動は、世界の賞賛を受けた。キーワードは「絆」や。しかし、これをアゴラで評判の悪い表現で言い直すと、「空気」になる。一言で言えば、論理よりも感情の支配する秩序やな。

断っておくが、ワシもどちらかというと空気は苦手や。さっきの学会の話でもわかると思うが、いたたまれないような空気が出来上がると、真っ先に壊しに行く人間や。そやけど、問題は空気の壊し方や。

今よりもっと粘着質だった戦前の空気を、近代的な軍事の理論が破壊したとき出現したのは真空地帯やった。銃後の花と隣組の空気が敗戦によって消滅したとき、焼け跡・闇市に代表される「実力」の世界が登場した。こういう場合、宗教的な倫理が機能せん分、イスラム原理主義なんぞとは別の意味で始末に悪いことになるで。

結局、戦後に秩序を回復したのは、天皇制という空気正常機を再起動したGHQの狡知やった。ミッドウェーのころから準備していたという話を聞くと、かなり悔しい気もするが、考えてみたら、こんな手合いと戦争したやつが一番アホやったということやがな。

話を神戸の震災に戻す。地震の翌日、家屋の倒壊現場で、明らかに死亡している老人を、家族とともに必死に掘り出したレスキュー隊員の話を聞いたことがある。トリアジの立場から言えば、感情の空気に支配された、とんでもない暴挙やと言うことになる。

他に、もっと急を要する現場はあったはずやし、もしかしたら、そのせいで助けられなかった命もあったかも知れん。そやけど、殺伐としてトラブルを起こしてまで、合理的に任務を遂行するころを選ばんかった消防隊員を責める気には、ワシにはどうしてもなれん。

空気というものは、不合理でウットウしいものや。そやけど、下手な方法で吹き飛ばしてしまうと、暴力支配の真空地帯が出現したり、もっと不合理でもっとウットウしい別の空気が発生したするのが日本人の社会や。ホンマに困ったもんやのう。

今日は、これぐらいにしといたるわ。

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト