ファッションモデルのオッパイ

2013年08月22日 06:00

9月恒例のファッションショー「ミラノコレクション」の季節が今年も間もなくやって来る。テレビの取材でそこに出掛けることがある。

言うまでもなくミラノは、ニューヨークやパリと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とでも呼べるのがファッションショーの会場である。そこで撮影をする時は僕はいつも相反する二つの感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと軽侮する気持ちが交錯して我ながら困惑するのである。称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。


次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品と言っても良いものだが、流行に左右される消費財であるために、作った先から消えていくのでもあるかのような短い命しか持ち得ない。それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと僕は思う。

季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、ファッションショーで発表され、しかもそのショーの成否が服の売り上げに如実に反映される。ファッションショーは、デザイナーという一人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。

ビジネスの厳しい真剣勝負の場であるファッションショーでは、アルマーニやフェレやベルサーチ(デザイナーは亡くなったがブランドはフェレ共々健在である)といった、トップデザイナーたちが作った服を、これまた世界のトップの中のトップモデルたちが軽やかに、優雅に、あるいは華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。

ショー舞台は客席の方に長く突き出ている。ちょうど歌舞伎の花道が客席の真ん中にどんと突き通された形である。ショー舞台のまわりの客席には、世界中からやって来たバイヤー(服の買い付け屋)やファッション好きの観客が陣取って、きらびやかな衣装に身を包んだモデルたちに熱い視線を送っている。そして客席には、必ずと言っていいほど世界的な映画スターやスポーツ選手やミュージシャンなどが顔を出して(招待されて)いて、ショーに花を添える仕組みになっている。

テレビカメラが回りつづけ写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛の声を上げたりため息をついたり拍手を送ったりして、ショーを盛り上げる。実に華やかなものである。カッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような色彩とスタイルと夢に満ちあふれた催し物である。

同時にファッションショーは変である。  
 
何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを踊ったりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精一杯工夫をこらす。ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣、右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっ歩するのである。そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術だ、という暗黙の了解がファッションショーにはある。しかし、宇宙人か少しアタマの変な人間でもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない、と僕は思う。

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではない。どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイというか何というか・・・

それはさておき、長身かつプロポーション抜群のモデルたちの着る服は、どれもこれもすばらしく輝いて見える。男の僕が見ても思わず、ウーム、とうなってしまうような素敵なデザインばかりである。何もかもが余りにも決まり過ぎているので、僕はふと心配になる。

(これらのきらびやかな服を、モデルのように長身とはいかないガニ股の、太めの、かつ短足で平鼻の、要するにフツーの人々が着たらどうなるか・・・。これはもう目も当てられない。想像するのも嫌だ。絶対に似合うはずがない!)と僕は想像をめぐらしては身もだえる。

そうしておいて、
(しかし・・・)
と僕はまた気を落ちつかせて考えてみる。

(ファッションショーとは、読んで字のごとく要するに「ショー」であり見世物である。従ってモデルたちが着ている服もショーのために作られたものであり、街なかでフツーの人たちが買う服は、またおのずから違うものであろう・・・)
と。
 
ところがこれは大間違いなのである。ファッションショーで発表されて話題になった服は飛ぶように売れる。というよりも、ファッションショーで見られなかった服は、たとえ有名デザイナーのそれでもほとんど売れないのが普通だ。だからこそファッションショーには世界中のバイヤーが群がるのであり、デザイナーにとってはショーが創造性とビジネスでの生き残りを賭けた厳しい試練の場となる。

それでは、というので僕はミラノの街に出て、通りを歩く女性たちをじっくりと観察してみる。しかし、いくら目を凝らして見てもファッションショーで見たあのめくるめくように美しい衣装は発見できない。衣装はかならずそこらに出回っているはずだが、一般の人が着ているためにショー会場で見た輝きがなくなって、少しもそれらしく見えないのだ。もちろんモデルのように変な歩き方をする女性もいない。ましてやオッパイをポロリの女性なんか逆立ちしても見当たらない。
 
単なる見世物かと思えばリアルなビジネスになり、それではその商品を街なかで見てみようとすると実態がない。面食らった僕は、そこでくやしまぎれに結論を下す。
(ファッションショーやファッションなんて要するにその程度のものだ。モデルのオッパイと同じで、あって無きがごとし。ごくごく軽いものなのだ・・・)
と。

仲宗根雅則
テレビ屋
イタリア在住

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