見えてきた石油の限界

2013年08月28日 17:17

「昔、石油の埋蔵量は『あと40年分しかない』と言われていた。だが、それから40年経った今でも、相変わらず『あと40年分』と言われているじゃないか」

このように冷笑する人が少なくない。


BPの統計によると、2011年における石油の可採年数は「54年」である。これは現在の技術的・経済的条件下で採掘可能な埋蔵量を、単に年間生産量で割った数値であり、今後の需要増を考慮していない。その関数で考えると、現時点で40年分くらいのストックがあると見なして差し支えない。つまり、「あと40年分」は、確かにその通りなのだ。

「ということは、これから中国やインドで自動車がどんどん増えていっても、40年間は石油が枯渇しないってことだね?」と、あなたは安堵されるかもしれない。

その通りである。それどころか、今のペースで需要が伸びたとしても、「枯渇」することは今世紀中にもない。資源量自体はそれくらい膨大にあるのだ。

しかし、問題の本質はそういう点にあるのだろうか。

石油の価格は、半世紀前は1バレルわずか2ドルだった。それが今では100ドル以上である。なんと、その間に50倍も値上がりしたのだ。では、今から半世紀後、いや、四半世紀後には、1バレルあたり、いったい、いくらになっているのだろうか。

仮に1バレル数百ドルにもなった場合、果たしてそれはエネルギーとして使う意味があるのか、エネルギーの呈を成しているのか――と、そういうことである。

なぜ石油価格の上昇は宿命付けられているのか?
このような心配は決して杞憂ではない。

そもそも、可採年数の概念を正しく理解する必要がある。石油の「生産」は、工場での日用品の「生産」とは、まったく意味が異なる。地下資源なので、採りやすいところから採る。だから、時間が経つにつれ、簡単には採れなくなっていく。より多くのコストとエネルギーの投入が必要になる。徐々に生産が困難化するということは、通常の量産効果とは逆の方向性である。石油産業はそうして増大する世界の需要に応えてきた。

たとえば、半世紀前は、地表のごく浅いところにパイプを突き刺すだけで、黒々とした石油が天に向かって自噴した。それで十分に需要を満たすことができたのである。ところが今では、数千メートルの海底下をさらに数千メートル掘り進めたり、石油を含んだ土壌を大量の燃料と水を使って茹でたりして、供給を間に合わせている。このような資源は、従来は採取コストがかかり過ぎて非可採扱いだったが、石油の市価の上昇によって採算ラインも切り上がり、ペイ(可採化)するようになったものだ。

石油の消費者と生産者との間で、40年後に突如として石油の使用を打ち切るという申し合わせがあるわけではない。現在の採算ラインで40年分を確保しているといっても、生産者は常に先を見越して、新たな開発に投資していく。企業として生き残るには、そうやって将来の資源を確保していく以外に道はないからだ。だが、その分の経費は着実に価格に転嫁されていく。かくして、同じ1バレルの原油を採取するのに、生産コストのほうは時と共に増大していく。「可採年数」はこうやって維持されている。

つまり、石油に関しては、価格を徐々に吊り上げて新規可採分を捻出していく一方通行の道しかないのだ。だから、石油価格の上昇は「宿命」なのである。

自動車用のエネルギーとしてはすでに不経済な石油
だから、「まだ需要の40年分もあるから大丈夫」などとタカをくくることは、問題の本質を何も分かっていない証拠である。枯渇に焦点を合わせた種類の議論に欠けているのは、石油をエネルギー単位あたりのコストとして見る視点であり経済感覚である。

いくら価格が高くなったところで、石油のエネルギーがリッターあたり9kWh程度である事実に変わりはない。つまり、エネルギーそれ自体の価値が高まるわけではない。

ガソリンの価格には64円の各種石油税が含まれているので、本来の価格は今ちょうど100円くらいである(*余談だが、その税収入は約5兆円で、大半が道路整備に突っ込まれている)。つまり、1kWhあたり11円程度である。しかも、リッター9kWhといっても、熱機関に投入した場合、動力に変換されるのはせいぜい3割程度だ。

対して、石炭や原子力ならば1kWhあたりのエネルギーを10円以下で提供できる。電気モーターならばそのエネルギーを9割以上の効率で動力に変換できる。しかも、石炭や原子力は国産化が可能だが、石油はあくまで輸入に頼らざるをえない。

つまり、比較論でいうと、自動車の動力費としては、石油の使用はすでに不経済と化しているのだ。一般に「自動車とはこういうものだ」という刷り込みがあるし、中にはメカに魅せられて自動車自体が目的化している人もいるが、本来、それは人やモノを運ぶための「手段」にすぎない。模索すべきは社会にとってより経済的な選択ではないだろうか。

むろん、動力費ということは、自動車の場合、ランニングコストの比較である。やはり、それとは別個に、車体価格や、自動車としての基本的なスペックの問題が存在している。真に経済的か否かは、これらも含めた上での総合的な話でなければならない。

最近、テスラ社のEVが北米でヒットしているが、「時代の先端を走っていると周囲から羨望を浴びたい新しいモノ好きのリッチ層」にうまくアピールしたもので、大衆車としての成功ではない。前にも言ったが、私の主観では、そのためには、航続距離500キロ以上で、車体価格が同クラスの内燃車と同程度であることが望まれる。あと、インフラの充実も欠かせない。ガソリンスタンドが街のあちこちにあるように、急速充電器が公衆電話ボックス並みにストリート上に存在していることが望ましい。

こういった普及の条件は、決して静止しているわけではなく、時代と共に少しずつ変化している。だから「流れ」として見ることが不可欠だ。私は、長期的な視点に立つと、むしろ内燃車こそが一時的なものだと考えている。今現在、バッテリー価格の低下と共にEVのイニシャルコストは下がり、石油価格の上昇と共に内燃車のランニングコストは上がっている。よって、両者の経済的な分岐点は数年以内に訪れると予想される。

中東有事で石油と心中か?
さて、以上は、あくまで「平時」の話である。

最近、またぞろ中東がきな臭くなってきた。シリア問題は、欧米へのテロ攻撃と、対イラン戦へと、連鎖する可能性がある。かつての中東戦争の頃とは、各国の国力も、武器の性能や数も異なるので、拡大すればかなり悲惨な戦争になるかもしれない。

そして、それが原油価格にどう跳ね返るかは説明するまでもない。現在、日本の運輸部門は石油依存率が98%であり、中でも9割を占める自動車は石油オンリーである。血流が滞ればすべての臓器がダメになるように、この部門でのトラブルはたちまち経済全体に波及する。だが、部門の電力化率を上げていけば、その分だけリスクを分散できる。

たしかに、石油の枯渇自体はまだ遠い。今の需要でもまだ何百年分かはある。しかし、現時点でも、kWhあたりのコストとして見た場合、すでに経済的なエネルギー源とは必ずしも言い難い。その上、中東問題などでリッター数百円にもなってしまったら、モノの原材料ならともかく、メインエネルギーとしては明らかに欠格である。日々大量にエネルギーを消費することで成り立っているわれわれの暮らしや企業の競争力はどうなるのか、物価の上昇がどれだけ貧困を広めるのか、ということである。枯渇うんぬんではなくて、それはエネルギーとしての価値があるのか、使う意味があるのか、という問題である。

経済的な観点からも、石油の「終わり」は見えてきたのではないだろうか。将来にツケを回さずに、われわれの世代が今から依存率低減に向けて行動を起こすべきだ。

(フリーランスライター 山田高明)

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