河野太郎さんはなにか勘違いしている --- うさみ のりや

アゴラ

先日、河野太郎さんがこんな記事を上げていらっしゃった。趣旨をまとめれば「脱原発運動は間違いではなく、共通点に着目し、大同団結して敵である推進派を打ち破ろう。さしづめ、『再処理はやめよう。再生可能エネルギーを増やしていこう。どこかの時点で脱原発を実現しよう。』というところならば合意できるのではないか」というところだろうか。


気持ちとしてはわからないでもないのだけれど、彼は一つ大きな勘違いをしている。それはエネルギー源構成が政治的運動によって変わると信じていることだ。みんなで「脱原発!再エネ推進!」と叫べば原発が停まって、再エネが普及すると思っている。それは大きな間違いだ。世の中はそんなに都合よくはできていない。エネルギー源構成は、政治との対話ではなく、市場との対話でしか変わらない。政治は市場には勝てない。この現実を彼は受け止めなければならない。現実に先進国で本当の意味で「脱原発」を成し遂げた国はない。ドイツだってフランスから電力を輸入している。つまり市場は本質的に安くて高品質な原発の電力を求めている。いかに多くの人が「原子力は経済合理性に合わない」と叫ぼうが、市場が受け入れる限り、原子力発電は続くものだ。

別に再生可能エネルギーを否定する気はないが、残念ながら電力というものの性質を考えれば大量に作った方が安上がりだし品質も安定する。所詮今の再生可能エネルギーの市場は、集中型電源の恵みを頂戴しているに過ぎない。本当に分散型電源が主役になりたいなら「コスト低減、出力、周波数の安定」というあたり前の市場からの要望を満たさなければいけない。オーガニックだけでは商売にはならず、たとえ化学調味料が入っていようが人は安くて美味しいものを求めるのと一緒だ。それができない限り分散型電源は、緊急電源や山村などの集中型電源が届きにくい場所で限定的に使われるニッチな商売の域を出ない(それでも十分価値があるとは思うが)。

私が思うに脱原発派がセクト化するのは、単純に市場の現実を受け入れられないからだ。共産主義と一緒で、市場に受け入れられないから、個々人が理想を追い求めるようになり、現実を否定して過激に走っているにすぎない。もし本当に再生可能エネルギーで脱原発を果たしたいなら、目の前の現実を受け入れて原発と同等の性質を持つ再生可能エネルギー源を開発しなければならない。理論的にそれが可能なのは、おそらく宇宙太陽光発電だけだと思う。その実現には途方もない時間と労力がかかるだろうが、ただそれこそ「未来を作る」という政治の役割なのではないのだろうか?

なんだか我ながらクソまじめ内容すぎて嫌になるが、ではでは今日はこの辺で。


編集部より:このブログは「うさみのりやのブログ」2013年9月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はうさみのりやのブログをご覧ください。