中国、韓国が東京オリンピックをボイコットしたらどうする?

北村 隆司

2020年オリンピック東京開催決定の知らせは、理屈抜きに嬉しかった。決まった以上成功して欲しいし、平和への発展を願って始まったオリンピック運動の目的どおり「平和の祭典」になって欲しいと願うや切な物がある。

嬉しい事は素直に喜ぶとして、不測の事態に備えておく事も大切である。これは東京オリンピックにけちをつける心算で言っているのではない。

何故かと言えば、オリンピック運動はこれまでも国際政治や偏見の波間で常に翻弄されて来た歴史があるからだ。


2020年大会を考えると何より問題なのは、政治、ナショナリズム、偏見、テロなどが介入してくる危険性である。

国が主導してオリンピックに政治が介入した最初の例は、カーター大統領がソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議してボイコットを提唱した1980年のモスクワ大会であった。この呼びかけには50カ国近くが応じ、モスクワ大会は寂しい大会になっただけでなく、多くの若きアスリートの夢を奪った。

それに対しソ連は、アメリカ軍によるグレナダ侵攻を表向きの理由にして東側諸国などを動員して1984年のロサンジェルス大会をボイコットする事で報復した。

その他にも、オリンピックでは政治の小競り合いが頻発している。

例えば、ハンガリー動乱勃発直後に行なわれた1956年のメルボルン大会のソ連とハンガリーの水球試合で流血の乱闘事件が起きている。

オリンピックはテロの舞台としても利用された。

1972年のミュンヘン大会で、パレスチナ武装組織「黒い九月」のテロでイスラエルのアスリート11名が殺され、その一部始終がTV中継され世界のスポーツファンを凍らせた事件や、1996年のアトランタ大会では五輪公園で起きた爆破事件で1人が死亡し100人近くが負傷した事件の犯人は、反ゲイ、反ユダヤ思想を持つ白人至上主義者だとされている。

人種差別反対が前面に出た大会として有名になった1968年のメキシコ大会では、男子200メートルの表彰台に立った2人のアフリカ系アメリカ人選手が、アメリカ国歌が演奏され星条旗が掲揚されている間中、頭を垂れ黒手袋をつけた握り拳を突き上げて偏見と貧困に抗議した場面が全世界のテレビで中継され、賛否両論の大論議を巻き起こした。

1976年のモントリオール大会でも、アフリカの22ヵ国がニュージーランドのラグビーチームが人種差別政策を続けていた南アフリカ共和国へ遠征したことに抗議してボイコットしている。

政治と人種偏見の両方が絡んだ大会として忘れる事が出来ないのが1936年に開催されたベルリン大会である。

ベルリンでの開催決定後にドイツの政権を握ったナチスが、ユダヤ人や反政府活動家に対する人権抑圧を行っていることに反発した米英両国を始めとする有力諸国がボイコットの動きを見せると、この大会をプロパガンダとして利用したかったナチスは、人種差別政策の一時凍結を約束し、ヒトラー自身も反ユダヤ、反有色人種差別発言を抑えるなど、国の政策を一時的に変更してまで大会成立に努力した。

ベルリン大会は、聖火リレーを編み出し最終ランナーが競技場で聖火をともす開会式を創案してその後のオリンピックの伝統となるなど、独創的なアイデアに満ちた大会となった。そして、国際オリンピック委員会(IOC)の依頼を受けて撮影された記録映画『オリンピア』は不世出の名画とされ、ナチスのプロパガンダは大成功を博した。

然し、この名作の監督を務めたリーフェンシュタール女史は、戦後ナチス協力者として逮捕され、裁判で無実を獲得して自由の身となったが、101歳でその生涯を閉じるまで批判を浴び続ける寂しい人生を送った。

何故、これほど頻繁に政治や偏見、テロ等ががオリンピックの舞台に登場するのか?

それは、宣伝の舞台としてはこれに勝る物が無いからである。

我々日本人は、近代オリンピックは商業化の強まりと共に、アスリートの祭典から宣伝の舞台に軸足を移している現実を忘れてはならない。

2020年の東京、いや日本人はその一挙手一投足を世界の監視カメラに見られていると思った方が良さそうだ。

その様な時、6月30日以降2カ月以上デモを中止していた「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が、9月8日から「嫌韓デモ」を再開したと言う報道を読んだ。

デモを中止していた理由が「人種差別的なデモが五輪招致に悪影響を与えるという指摘を受けたため」と聞き、未だにナチスの猿真似をする日本の右翼の馬鹿さ加減にあきれた処だ。

日本を取り巻く国際事情は日本で想像(期待?)するより遙かに微妙なものがある。

1964年大会の10月開催と異なり、2020年の東京オリンピックの開催予定日が7月24日~8月9日まで(パラリンピックは8月25日~9月6日まで)と多くの終戦記念行事と重なるだけに、反日(日本右翼も含む)で生きるグループに悪用されるのが気掛かりである。

仮に、靖国、歴史観問題がもつれ、中国、韓国がオリンピックをボイコットすると決めたら日本はどう対処するか? 今から対策を準備した方が良いと思う。

中国は1956年のメルボルン大会から1976年のモントリオール大会までの連続6回は台湾問題、1980年のモスクワ大会はソ連のアフガン侵攻を理由に合計7回連続でオリンピックをボイコットした常習犯だが、大国に成長した現在の中国を当時と同じに扱う訳には行かない。

いくら大国となった中国とはいえ「嫌いな日本には行かない」程度の理由で中国に同調する国があるとすれば韓国くらいだと思うが、問題は、ヒトラーも見通した様にオリンピック程の壮大なプロパンガンダの舞台は他には見当たらず、デマや風評を流布する舞台としても大いに利用価値があると言う事実である。
日本は詐欺師まがいのビリオネアーのトランプ氏の様に「無視されるより悪評の方が余程ましだ」と高をくくる訳には行かず、デマに対しても何らかの効果的な反論を準備しておく必要がある。

最も重要な事は、相手に不必要な口実を与えない慎重さと国際センスを磨く事である。

その点、国際センスゼロの田舎侍の集まりである「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の先生方の言動は心配になる。

先生方もA級戦犯の合祀を肯定する前に、海外からは同志に見える「在特会」や「ネトウヨ」の暴走を制し、西郷隆盛や会津藩士の合祀運動でも起こせば、少しは国際的な信用度も上がるのでは? とおせっかいをやきたくなる。

保守的な人で「武士道」を否定する人はおるまい。

釈迦に説法だが新渡戸稲造の「武士道」によると「武士道とは『武士の掟』すなわち『高き身分の者に伴う義務』のことである。武士道の源の中でも、愛,寛容、他者への情愛、哀れみの心,即ち『仁』は、常に至高の徳として、人間の魂がもつあらゆる性質の中で、もっとも気高きものとして認められてきた。それは二重の意味で『王者の徳』とされている。なぜなら、それ自体が多くの徳目の中でも特に光り輝く徳であり、偉大なる王者にこそふさわしい徳であるからである」とある。

この際、是非とも『高き身分の者に伴う義務』のあり方を熟慮して欲しい。

国際世論は日本では想像出来ないほど「差別」に敏感である

オリンピックと言う国際的な「プロパンガンダの舞台」で、低劣な「嫌韓」「嫌中」運動を展開する事は最も効果的な「反日運動」である。

今必要なのは、「親日」であり「反」ではない。相手は韓国でも中国でもなく世界の世論であり「国益」である。

その点からも、中国や韓国の過ちを正すより自らの過ちを正すほうが遙かに容易である。尤も、ヒトラーの様に絶対に自分が正しいと主張されるのであれば別だが。

その意味で、今回の開催地争いで東京に敗れたトルコ国民の紳士的な対応の最大の受益者は「トルコ国」であった事も認識すべきだろうと思う。

2013年9月10日 北村隆司