靖国問題は「魂の問題」だから、政治ショーにしてはならない

松本 徹三

8月12日19日9月3日9日の4回にわたり、日韓問題と歴史認識の問題について論じてきたが、靖国問題にはあまり触れてこなかった。これでは片手落ちなので、今日はこの問題について語りたい。靖国問題についての議論は「歴史認識」の問題と深く関わるからだ。


靖国問題は日本人の魂の問題であると同時に、近隣諸国との付き合いに関わる重要な問題だが、結論から言うなら、その二つの観点から、閣僚等は靖国神社に公式訪問をするべきではない。テレビに映った「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の面々のこれ見よがしのドヤ顔を見ていると、自分たちの選挙の為のデモンストレーションである事が透けて見えて、私は気分が悪くなる。靖国神社に祀られている英霊の為にも、こんな事はやめた方が良い。

何故安倍首相他の多くの政治家が靖国神社を公式参拝したいかについては、私には或る程度分かっているつもりだ。先の戦争で兵士として戦い、散っていった方々のご遺族の中には、「あれは不正義の戦いだった(だから犬死にだったのだ)と言われては、亡くなった人たちは浮かぶ背はない。だから、あれはどこにも恥じるところのない戦いだったのだとはっきり言ってほしい」と、強く要請してくる人たちがいるからだと思う。「あの人たちが報われないのなら、将来お国の為に戦う人はいなくなってしまう」という人たちも、恐らくは相当数いるのだろう。

この人たちはまた、「靖国参拝は日本人の魂の問題なのだから、外国人にとやかく言われる筋合いではない」とも言うだろう。しかし、もし本当に「魂の問題」であるのなら、何故「国」として祀って貰い、「国」を代表する内閣総理大臣等に直接参拝して貰わなければ、浮かばれないのだろうか? 

仮にどこかに暴虐な帝王がいて、この帝王が自分の欲望を満たす為にやたらに戦争を起こし、その為に多くの人たちが心ならずも兵士として狩り出され、戦場で空しく散っていったとしよう。この帝王の戦争はどう考えても正義にもとるもので、残念ながら兵士たちの死は犬死にだった。それならば、この兵士たちの「魂」は永遠に浮かばれず、原野をさまよっていてもよいというのだろうか? 

キリストや仏陀の教えを思い出すまでもなく、本来、全ての「魂」は救われるべきであり、実際に起こってしまった戦争を、正義であったか不正義であったかを議論する事は、この事とは全く関係のない話だ。だから、そういう政治的な話をしている時に「魂」の話を持ち出す人は偽善者だ。

かつての大日本帝国では、国体の精華は「国家神道」の中にあり、その根幹は、「天皇は現人神であり、国民は天皇の命が下れば欣然として死地に赴き、そこで散れば、天皇はその忠誠に深く思いを致して、その魂を靖国神社に祀って下さる」という事であった。これは、かなりの数の日本人にとっては、大変美しい事だったように感じられるかもしれない。

しかし、同じ日本人であっても、過去の戦争に対する思いはまちまちであろう。その頃の体制を嫌悪しながらも、やむなく体制に従っていた人たちも数多くいただろう。更に多くの無垢の若者たちは、漠然たる不条理の思いに押しつぶされながら、「お母さん!」と叫んで亡くなっていった筈だ。「魂」の問題を口にするなら、この人たちの事にも深く思いを及ぼさなければならない。人間を画一的に見るのは良くないし、まして況や、それを国家主義の枠の中に閉じ込めようとするのは、言語道断の傲岸である。

かつて日本軍の侵攻を受け、自分たちの国を蹂躙された人たちや、日本軍との戦いで肉親を失った人たちから見ればどうだろうか?「よく分からないが、その集団の精神的な支柱となる不気味な神殿があり、その集団に属するみんなが、死を恐れずに戦って、その神殿に祀られる事を至上の幸せとしている」と理解している人たちがいたとしたら、その人たちは、その神殿の存在自体に不安を感じないでいられるだろうか? 「同じ事がまた起こっては困るので、そんな神殿は取り壊して欲しい」と思わないだろうか?

現在、靖国問題について神経質な中国人や韓国人を見て、多くの日本人が違和感を持ち、「あなた方にとやかく言われる筋合ではない」と思っているのは事実だろう。しかし、それは自分の事だけを考え、異なった立場にいる他の人たちの事を考えない「配慮に欠ける(子供のような)態度」だと思う。今や世界は一つだ。外国の人たちの考えや感性を理解しようとせず、自分本位の考えだけに凝り固まっていたら、世界の大勢の中で必ず孤立し、大きな国家的損失を招く事になるだろう。自国の利益を守る為にも、諸事において外国人の立場を慮る事が必須なのだ。

「神経質なのは中国人や韓国人だけで、欧米人は何とも言っていないじゃあないか」という人がいるなら、それも間違っている。もしドイツに、英国の様な「ドイツ国教会」というものがあって、その総本山であるベルリンの大聖堂にヒットラーを始めとするナチスの幹部や全ての兵士が実は秘かに祀られており、或る日突然メルケル首相が閣僚を引き連れてそこを訪れ、花束を捧げて深々と礼拝したらどうだろうか? ユダヤ人のみならず、全ての欧州の人たちが口を極めてドイツ政府を非難し、内閣はとてももたないだろう。

日本人の多くは「かつての日本とナチスドイツは違う」と強弁するだろうが、多くの外国人にはその境界は曖昧に見える筈だ。日本人はその事を常に良く噛み締めておく必要がある。かつての日本とナチスドイツには、少なくとも或る程度の共通点があり、当時の日本がナチスドイツに心酔して同盟を結んだのは、
まぎれもない事実だからだ。

さて、よく分からないものには猜疑心と恐怖心を抱き、「そんな神殿は取り壊して欲しい」と願う人たちがいるだろうという事を言ったが、実際に、終戦直後に一度、そういう事はあったのだ。無条件降伏をした日本を占領した米軍は、皇居は取り敢えずそのままの形で守ったが、靖国神社は直ちに焼き払おうという計画を立案していた。結局のところ、この計画には反対意見も数多く出て、実現はしなかったが、靖国神社の運命は、実はまさに紙一重のところにあったのだ。

その時の決め手となったのは、ローマ教皇庁代表で上智大学の学長だったブルーノ・ビッテルの一言だった。彼はこう言った。「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の源泉であると言うのなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められる事を、そして、如何なる宗教を信仰するものであろうとも、国家の為に死んだものは、全て靖国神社にその霊を祀られるようにする事を進言する。」

更に、これは殆どの日本人が知らない事だろうが、ローマ教皇庁は、日本の真言宗の一僧侶の要請を聞き届け、A級戦犯、BC級戦犯として処刑された1068人の日本人たちの為のミサを、1980年にサンピエトロ大聖堂において行ってもいる。

序でながら言うと、靖国神社には坂本龍馬や高杉晋作等の維新の立役者の霊は祀られているが、戊辰戦争や、奥羽越列藩同盟による抗戦、西南戦争などで賊軍となった軍の将兵たち(西郷隆盛を含む)や、新撰組、彰義隊の隊士らの霊は祀られていない。これを見ると、「勝者と敗者の区別なく、全ての人の魂に等しく向き合う姿勢」においては、ローマ教皇庁の方が靖国神社より真摯であるように、私には思えてしまう。

さて、戦後の日本は「政教分離」を明確に謳っており、靖国神社はもはや「国家神道の中枢」ではなく、一宗教法人でしかない筈だ。にもかかわらず、自民党は1965年から1973年まで5回にもわたり、靖国神社の国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出している。(いずれも審議未了で廃案になっているが…。)かつてローマ教皇庁が「排すべきは国家神道という政治的な制度であり、靖国神社ではない」と主張して救ってくれた靖国神社を、再び政治の道具にしようとしている人たちがいるのが、私には到底理解出来ない。こういう人たちは「恥知らず」なのではないだろうかとさえ、私は思う。

私はずっと長い間A級戦犯分祀論者だった。しかし、ローマ教皇庁にまつわる話を知ってから考えが変わった。靖国神社は今のまま、戦争で亡くなった全ての軍人たちの魂を安んじる場所であり続けるべきだ。しかし、そのかわり、そこからは一切の政治色を払拭すべきだ。従って、内閣総理大臣は勿論、国を代表する立場にある全閣僚は、公人として参拝する事は当然差し控え、希望者は純粋に個人として参拝すべきだ。祭礼の時に境内で「あれは侵略戦争ではなかった」等と政治的な演説をする事も禁止すべきだし、軍国主義時代の雰囲気を醸し出している付属施設の「遊就館」は、別の場所に移すべきだ。

私には幸いにも戦争で亡くなった親族はいない。(日露戦争で亡くなった伯父は一人いるが。)しかし、「もし仮に、例えば私の兄が戦場で命を落としていたとしたら」と、私は考える。きっと私は、どんな立場にあろうとも、一人で、或いは家族と共に、静かに靖国神社に参拝するだろう。そして、心の中でこう祈るだろう。

「我々より少し年上の日本人たちは、間違った判断によってあの戦争を引き起こしてしまい、その為に、兄さんは若くして死んでしまいました。現在では、あの戦争は正しい戦争ではなかったと考えられており、私もそう思いますが、国や、お母さんや、私たち幼少のものの将来の為を思って、勇敢に戦い、その為に死んで行った兄さんは、どれだけ無念だった事でしょう。その事を考えると、断腸の思いです。しかし、我々や我々の子供たちは、あの戦争から学んだ事を決して忘れず、二度と同じ誤りを繰り返さないように努力しますから、どうか安心して、安らかにお眠りください」

戦前に作られた靖国神社の大鳥居が、如何に偉容を誇っていようとも、世界の誰が、こういう私に懸念を持ったり、敵視したりするだろうか?