日本の表情「お辞儀」(2):廃止出来ないか紋切り型のお辞儀

2013年09月12日 17:48

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上に掲げた写真を見て、山一證券最後の社長野澤正平氏のお辞儀と勝俣会長など東電トップのお辞儀を比べれば、どちらが形式的な陳謝であるかは一目瞭然である。

日本では、組織やその一員が不祥事を起こすと決まってその指導的な地位にある人が記者会見の場で揃って頭を下げる。

日本独特のこの奇妙な習慣は何時頃から誰の要求で始まったのかは知らないが、被害者に陳謝を伝えるのが目的だとしたら目的を果たしていない事は確かだ。


福島原発事故以前の事故で最も悲劇的なものは、520名と言う航空史上最大の犠牲者を出した1985年の日航機の御巣鷹墜落事件であろう。

当時の日航の社長であった高木 養根氏が記者会見で頭を垂れて陳謝したかどうかは記憶にないが、遺族からは一件の訴訟も起きれなかった事は世界の七不思議であった。

訴訟がなかった理由には、事故が日本で起きたと言う事もあろうが、日航社長を引責辞任した後も個人の資格で遺族への慰問行脚をしたり、私財を投じて御巣鷹に慰霊碑を建立して慰問登山を続けた高木 氏の誠意溢れる対応も大きな役割を果たしたと思う。

私は読んでいないが、山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』に描かれた卑劣な人物のモデルが高木氏だと言う噂が出たらしいが、高木氏を知る人の話ではとんでもない誤解だと言う。

高木氏は一高から京大の文科に進み滝川事件に反対して一年間の拘置生活を送った後、東大法学部を経て航空界に身を投じた。そして、半官半民の日航の初めての生え抜き社長に就任された経歴の持ち主である。

これでもわかる通り、同氏は若かりし頃から自分の身分に構わぬ情熱と正義感の持ち主であった様に思われる。

トップの陳謝会見で最も印象的であったのは、何と言っても1997年11月に山一證券の自主廃業発表をした席で号泣した、野澤正平社長(左上写真)の会見であった。

この事をウイキは

大小を問わず日本の企業では、自社の不正行為が発覚した際に記者会見等で無責任な発言を繰り返すなどして誠意のない対応で醜態を晒す経営トップが多い中にあって、その経営トップが率先して行った誠実な謝罪として、今や伝説に残る記者会見にもなった。野澤はこのときの涙の意味について、『一つは、オリンピックなどでスポーツ選手が見せる、がんばったけど駄目だったという悔し涙』。私も社長として、100日間がんばったけど、『力が及ばずに、ああなってしまったという悔し涙』そして、もう一つの意味は、山一證券に在籍した7,700人の従業員、関連グループ会社を含めて1万人、さらに彼らの家族を含めた3万人がこれで路頭に迷ってしまう。『なんとか助けてもらいたいと訴える涙』、気持ちとしては、後者の方が強かった

と書いている。

野澤氏は山一の学閥とは縁遠い法政大学出身の営業畑の人物で、企画畑出身の三木淳夫、行平次雄の二人の前任社長が作った2,600億円という巨額の違法簿外債務の存在を、社長に就任して初めて知ったと言う。

「飛ばしによる粉飾」で山一を廃業に追い込んだ幹部の責任は当然だが、その寸前まで箸の上げ下ろしまで山一に口を出し、実情を事細かに知っていた当時の大蔵省証券局長の長野厖士氏は、いざとなると山一を見捨て自己防衛に走った一番の「悪」だと言うのが巷の評判であった。

長野氏はその後「過剰接待」のスキャンダルで大蔵省(当時)を去るが、山一問題で彼が頭を垂れて詫びた記事を読んだ記憶はない。

スポーツ界の不祥事の陳謝も頂けない。

不祥事を陳謝するなら、監督権限を持つ文科省が国民に頭を垂れるのが本来の姿だと思うが、実際は監督される高校野球や大相撲等の競技団体の幹部が文科省に頭を垂れて陳謝し、警告書みたいなものを受け取るのは理屈に合わない。

武富士の創業者の武井 保雄氏は「右翼は暴力団に弱い。暴力団は警察に弱い。警察は右翼に弱い。この三つをうまく使って物事を収めろ」と言ったそうだが、お上や暴力に弱い日本の実情を上手く表現している。

日本の陳謝劇はこの事大主義を形に表した儀式なのかもしれない。

それにしても個人の不祥事の責任を所属団体に取らせる「集団処罰制度」は、封建時代の「五人組制度」と同じ全く不条理な制度である。

特に高野連はこの傾向が強く、滅多に来ない甲子園出場を目指して懸命に練習に励んできた若者が、個人的には無関係な部員が不祥事を起こしたと言う理由だけで、一生の機会を奪われるなどは気の毒どころか人権侵害であり「五人組制度」の廃止は喫緊の課題である。

右上の写真は言わずと知れた東京電力トップの謝罪である。

企業トップの謝罪会見が頻発する為か、最近は「お辞儀」も紋切り型が増え誠意が伝わらないと思うのは私の偏見であろうか。

それに比べ、夫々の個性を活かして世間に陳謝の気持ちを伝え切った日航の高木社長や山一の野澤社長のエピソードを振り返ると、両氏はともに知識や理論が先走って行動が伴わない「頭でっかち」の人物ではなかった事だ。

言い換えると「情(愛)と知」を合わせた「Philosophy(哲学)」の持ち主で、日本の今後のリーダーがモデルにすべき人物像かもしれない。

日本の指導者の選抜方式は、「頭でっかち」とか、頭の大きさが体全体の8分の1位が一番均整のとれたスタイルだと言う意味で使われた「八頭身」と言う言葉が死語になった頃から狂いだした気がする。

日本はそろそろ筆記試験偏重を避け、故事にもある「文武両道に秀でた人物」を指導者に選ぶシステムに変える時期にきているのではなかろうか?

2013年9月12日
北村 隆司

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