みのもんた氏の報道番組出演自粛と親の責任なるものについて --- うさみ のりや

アゴラ

みのもんた氏の次男が逮捕されたとのことで「親の責任があるのではないか?」という議論が盛り上がっていますが、その言葉を聞くとどうしてもある一人の青年のことを思い出してしまいます。その青年の名は「加藤智大(かとうともひろ)」です。こういうと分からない人も思いますが、秋葉原通り魔事件の犯人と言えば皆さん分かっていただけると思います。2008年6月にトラックで秋葉原の歩行者天国に突っ込んで、その後無差別にナイフで通行人に切り掛かった事件ですね。(死者7名、負傷者10名)この犯人である加藤智大氏が幼い頃受けた教育が、すさまじい。少し例を挙げるとこんな感じ。


○全ての行動が母親の許可制。本を買うのも、服を着るのも許可制。ちなみに本を買うと感想文を書かされる。

○作文を一文字でも間違えたり、汚い字があったりすると、ゴミ箱に捨てて最初から書き直し

○テレビは見ることが禁止され「ドラえもん」と「まんが日本昔ばなし」以外は、高2になるまで見たことがなかった。

○ゲームは土曜日に1時間だけ。

○漫画や雑誌は禁止

○友達を家に呼ぶことも友達の家に行くことも禁止

○男女交際は一切許さない

○勉強をしているといきなり質問してきて、10秒以内に答えられないとビンタをする。それを延々と続ける


なんで親がこんなことをしたのかというと、「北海道大学に子供を入れて、祖母に自分を認めてもらうため」だそうです。加藤智大氏も小さい頃に「夢は?」と聞かれて「北海道大学の工学部に入ること」と答えたそうです。このころに既に自由な心を殺されていたのですね。子供が自然にそんなことを夢見るはずが無いのに。ちなみに外界との情報が完全に遮断されていたので、加藤智大氏の弟は高校まで自分の家庭が異常だったことを知らなかったそうです。言うことを聞かないと凄まじい罰が施されたそうで、一例を挙げると弟の証言では加藤智大氏のが中1の時にこんなことがあったそうです。

『食事の途中で母が突然アレに激高し、廊下に新聞を敷き始め、、その上にご飯や味噌汁などのその日の食事を全部ばらまいて、「そこで食べなさい!」と言い放ったんです。アレは泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べていました』

この時に他の家族である、父、弟も横目で見ながら黙ってご飯を食べ続けていたそうです。ちなみに加藤家は家族全員が別々の部屋に暮らし、相互の接触は最小限にとどめられおり、母親との個人との関係において全てが成立したそうです。典型的な完全支配ー洗脳モデルですね。加藤氏もその弟も、このような教育の結果、小学校・中学校時分は良い成績を収めたそうですが、高校以上になると勉強についていけなくなったそうです。当たり前ですよね、母親のロボットである以上、母親以上の学力を身につけることは出来ないんですから。結果として兄弟は学業的にもついていけなくなり、クラスの話題にもついていけなくなり孤立していった。

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その後の顛末やこの辺の事情はネットで色々と見ることが出来るので、そういったサイトに任せるものとしますが(例えば:http://www11.atwiki.jp/akb_080608/)、結局彼は25歳のときにあの事件を起こした。なんちゅーか、こんな教育受ければねじ曲がるのは当然ですよね。一人の大人が犯した犯罪とは言え、どうしても「親の責任」という言葉が頭に浮かんできてしまう。

で感じるのは、「人格の形成に両親の教育の影響がある」というのは普遍的事実ではある、ということと、それと親の責任というものの関係性をどう考えるのか、ということです。みのもんた氏の息子はまだ逮捕されただけで有罪というわけではないので、こうした議論をすることは時期尚早だとは思うのだけれど、仮に犯罪をしていたとしても下の記事に書いてあるようなことを言いきるのはちょっと違うんじゃないかな~、と思うんです。

 

○「みのもんたさん」二男逮捕、超有名人の「子育て失敗」、責任は重く辛い、朝ズバッ!「引退必至だ」

http://blogos.com/article/69940/

思うに親の責任というのは相対的問題で、結局みのもんた氏がどういう教育をしたか、ということが明らかにならない限り簡単に「親の責任」ということを言ってはいけない気がするんですよね。まさか彼が加藤氏の両親のような凄い教育をしたはずは無いと思うのですが、そういう意味じゃ「30歳すぎた良い大人なんだから、息子と言えど責任は無い」ということも「親の責任は絶対」ということも違うと思うんですよね。

で、じゃ彼が「報道番組への出演自粛」という形で今何に責任を取っているかということを考えるに至るわけですが、それはこういった議論とはあまり関係なく、単に今まで彼が売ってきたイメージに対して責任を取っているんじゃないかと感じています。彼は今まで報道番組で「自分は無謬の存在である」という前提でコメントを繰り返してきた、それにも関わらず彼の身の回りで結構な不祥事が起きてしまった。この時みんなの頭によぎるのは「これが他人の息子だったら、みのもんた氏はなんて言うか」っていうことなんですよね。やっぱり多くの人は「ズバッ」と切り込むんじゃないかと思っている。そういうイメージを作り上げてきましたからね。なのでどうしても今後違和感を持って彼をテレビで見ることになる。そうなれば視聴率は下がるので、自粛という形で「イメージの悪化を防ぐ」+「その間に新しいイメージを作る」という手段をとらざるを得ないのかなと。つまりこの出演自粛は、倫理的問題が問われた結果ではなくて、単にブランディング戦略の一環にすぎないのではないか、という気がします。

そんなしょうもないことを、せっかくの三連休の中日につらつらと考えてみました。トホホ。

ではでは今回はこの辺で。


編集部より:このブログは「うさみのりやのブログ」2013年9月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はうさみのりやのブログをご覧ください。