情報化社会を生き抜く能力とは?-教育の情報化をめぐって

2013年09月20日 11:51

最近、OCW(オープンコースウェア)という形で、大学の講義が無料公開されるようになってきた。 また、ビデオで授業配信を行う、予備校、塾も現れている。

こういう形の授業配信は、今後、どんどん増えてくだろう。 多くの人が無料、または、低廉な価格で授業を受けられるのは良いことだ。 

しかし、このような教育は、情報量を絞り込む能力を予め身に付けておかないと、機能しないことを、ここでは指摘したい。


教育の個別化

ビデオ授業のような情報端末を通した教育の利点は、個人個人の能力や進度に合った教育ができる教育の個別化や、省力化、効率化にある。 

ビデオ教材や、プログラム学習は、ほぼノーコストで無限にコピーできるし、早送りや、繰り返し視聴することができる。 

ビデオに収めておけば、学校で受けた授業ををもう一度見ることも出来るし、病欠しても、入院しても授業を受けられる。 極端な話、学校に行かなくても、配信される授業を見ればよいというわけだ。

Radically Personalized Learning for AllGoogle’s Real Influence on Educationを見ると、教育の個別化の動きも盛んなようだ。個人個人が、自分の能力や進度に見合った、教育を受けられれば、素晴らしいだろう。

情報量を少なくすることが、学習の第一歩

何だか、いいことづくめのようだが、こういった教育の個別化、情報化は、実際には、非常に非効率なものになる危険性がある。

家庭学習において、授業の復習をする場合、ノートを取り出して、それを見ながら復習するのと、授業のビデオをタブレットで、もう一度見て復習することを比較してみよう。

ノートを見る場合、数ページのノートを一瞥するだけで、どんな授業を受けたのかは明らかであり、理解が行き届かない点だけを取り出して、それを復習すればよい。

一方、ビデオで授業を、もう一度見る場合は、早送り機能を使っても、どこに理解が難しい部分があるのかは、散漫になってしまう。

この場合、ノートの持つ一覧性と圧縮された情報が、学習の著しい効率化をもたらしているわけである。ノートを使った復習の方が数段優れているといえるだろう。

このように、授業の際に、目や耳から入る膨大な情報の中からエッセンスを取り出して、書き記してゆくことで、情報量を著しく少なくすることが、思考の自由度と効率性をもたらすのである。

これは、旅の思い出を、ビデオで記録するか、写真で記録するかの違いに似ている。写真で記録した場合、アルバムを開いただけで、旅の始めから終わりまでが、一瞬で甦るが、ビデオの場合は、始めから終わりまで通してみないと旅の全貌は再現されない。このように、情報量を小さくすることが、情報の質や、使い勝手を変化させる。

ネット社会は、我々の触れることのできる情報量を飛躍的に増大させたわけだが、これは、下手をすると、雑多な情報を頭の中に乱雑に詰め込むだけの人を増やしてしまう危険性を孕んでいる。短文のメールをやり取りすることが多くなったが、短文をやり取りしているだけでは、文章力が身に付かず、整理されない情報が蓄積される危険がある。

これを防止するには、小中学校の頃から、整理されたノートを作ることを通して情報量を圧縮する訓練をしなくてはならない。 ノートを記すことは、極めて学習効果が高い。 ノートを記すには、頭のワーキングメモリーをフルに使うことになり、それを頭の中で整理し、重要な点を抜出し、といった作業を脳で行うことになり、それを書くことで、脳に刺激が伝わり、要点を記憶する手助けになる。そして、作ったノートは復習を著しく効率化してくれるのである。

授業配信の場合も、きちんとしたノートを作り、授業の内容を整理することが必要だ。

だが、こうしたノートを作る技術、そのために必要な、授業内容を整理し、重要なポイントを見つけ出す能力は、授業をビデオで見ているだけでは、身に付かない。 

教師の役割とは何か?

学習における教師の役割は、もちろん授業をすることにもあるが、最も大きな役割は、生徒が理解できていない部分を指摘し、理解を進めるアドバイスをすることだ。

これを見るには、ピアノのレッスンを考えればよい。「ここは音が違う」、「手首の力を抜いて」、といった指摘とアドバイスがレッスンの本質だ。
 
出来る生徒と、出来ない生徒を分けるのは、自分が分かっていないことをきちん認識出来るのか、出来ないのか、という点が大きな分岐点になっている。これは、音痴な人の多くが、音程を外していることが認識できないというのと同じである。

数学の場合、微分の計算を自在にできるのに、微分の定義を尋ねられると答えられない、とか、三角関数の加法公式を自在に使えるのに、「何で、その式が成り立つの?」と聞かれると説明できない高校生は多い。表面的には分かっているようでも、実際には機械的に暗記した公式を当てはめているだけで、理解できていないのだ。 この場合は、公式という足場を無条件に認めてしまっているわけで、こういう点は、教師が指摘しないと、表面上、演習問題が解けるだけに、生徒が自分の無理解に気付かないことが多い。

その場しのぎの学力では、少し内容が難しくなると、対応できない。 

このように、教師が、生徒の理解の不完全性を指摘し、解決方法をアドバイスするといった役割をデジタル機器で代替、あるいは効率化することは可能なのか、と考えると、疑問を感じざるを得ない。 

たとえば、生徒の書いたものを教師がモニターで見るというのでは、情報量が少なすぎるだろう。それよりは、生徒をピックアップして、黒板の前で説明させ、問題点を指摘するといった従来のやり方の方が、遥かに優れているように思われる。

デジタル機器を使って、ある程度、教師と生徒のコミュニュケーションは可能だが、効果は限定的だろう。 ビデオ学習は、生徒を主体的に考えない観客や視聴者にしてしまう危険性が高く、個別学習に双方向性を取り入れるとなると、教師の労力が限界を超えるだろう。IT技術で、一人の先生が、クラス全員の家庭教師役を担うことを可能にする、というのは幻想に過ぎないと思われる。一人の先生が40人のピアノのレッスンをスカイプを使って、同時に行うことを考えれば、よく分かるだろう。

情報を捨てる能力を身に付けよう

物事を素早く、正確に理解するには、物事の本質を見抜かなければならない。つまり、入ってくる情報の中から本質的なものを見抜く力が必要になる。 プロ棋士は、1分間に数十手先を読むといわれるが、これが出来るのも、筋の悪い手を捨て、筋の良い手を瞬時に見抜く力があってのことだ。インターネットの検索機能が充実し、情報を集めるのは容易になった現在、もっとも求められる能力は、情報を捨てる能力なのだ。

我々は、情報を捨てる能力を、本を読んだり、授業を受けてノートをとったり、長い文章を書いたりすることで、知らず知らずの中に身に付けているのである。

文章を書くことが、情報を捨てる能力や論理能力を要求することは、実際に長い文章を書いてみれば、明らかなことだ。

マークシートによるテストの問題点は、この部分を隠してしまうことで、学生の能力を見るという点では、記述式のテストには、到底かなわない。 

ITの発達が、我々の接することができる情報量を飛躍的に増大させたが、ビッグデータが流行語になっているように膨大な情報を掻き集める、世界の人々と繋がる、といったことに関心が集まっているように思われる。

だが、ビッグデータも、きちんとした目的意識を持ち、本質を見抜く目がなくては、ただのゴミの山に過ぎない。 情報を捨てること、圧縮する能力こそ、今日の情報化社会を生き抜くのに必要であることを、ここで強調しておきたい。

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