福島原発事故、専門家は責任から逃げるな

2013年09月22日 00:30

あの人たちは、パンがなければ、なぜお菓子を食べないのでしょうか

E3839EE383AAE383BCE382A2E383B3E38388E383AFE3838DE38383E38388マリー・アントワネット
(1755-1792。仏革命時の王妃、のち処刑。食料要求のデモ隊に述べたとされる言葉)


放射能パニックにどのように向き合うか

ある政府系財団の科学コミュニケーションセンターで、関係者がTwitterで「専門家による意義深い取り組みです」と、学者が科学知識を伝える組織の活動を紹介していた。科学技術と社会の関係は関心のある領域で、私はこうした情報をウォッチしている。しかし、ちょっと腹が立った。そこには「福島」「原発事故」という文字がない。挑発はよくないが、私はその関係者に次の皮肉を送ってしまった。

「科学コミュニケーションの大失敗で福島県が混乱し、日本経済が負担で崩壊しかねない「戦時」において、「コミュニケーションがどうたら」とご高説を述べるのは、どこの国の「お公家さん」の話かと悲しくなります。今は危機に立ち向かうべき状況なのに」

この小論におつきあいいただければ、皮肉を言いたくなる気持ちも読者の方に多少は理解いただけると思う。少し八つ当たりの面があることは認めるが…。

福島原発事故の処理という大問題が進行している。事故では放射能の影響による死者はゼロで、これからも普通に生活する限りにおいて健康被害が起こる可能性は極小だ。ところが放射能パニックと生まれた恐怖によって合理的な対策が行われず、福島内外の人にストレスを加えている。恐怖は鎮静化しつつあるものの、今でも問題は継続中だ。

そしてさまざまな混乱が続く。一連の問題は「科学知識の社会の普及」の失敗によって生まれた面がある。「科学コミュニケーション」という言葉は多義的なので、ここではこの意味で使う。放射能のリスクを科学で分かる範囲で正確に認識し、福島の現状を冷静に観察すれば、恐怖を抱くことも、騒擾に社会が包まれる必要もない。今の混乱はばかばかしいものだ。

470px-The_Screamこうした状況を憂いて、私は一記者として必要な情報を正確に紹介しようと試みてきた。「原発の是非の検討と、今の日本の放射線量のリスク評価は別。冷静になろう」と強調した。さらに健康被害の可能性はほとんどないと主張した。

すると見ず知らずの人から批判だらけになった。主張を検証するのではなく「御用」とか「原発推進派」とこの2年半、ののしられ続けられた。その中には狂気、憎悪を帯びる異様なものもあった。私だけではなく、放射能とリスクをめぐるコミュニケーションを試みる人は、同じような無駄な手間にエネルギーを費やした。(恐怖と混乱のイメージとして、ムンクの「叫び」)

責任から「逃げた」専門家が多かった

冒頭の例に戻ろう。私が「カチン」ときたのは目の前に放射能パニックが存在し、それを解決しようと奔走する人たちがいるのに、専門家がそれに向き合わずに税金を使って「科学コミュニケーションかくあるべし」と語る姿に、「ずれている」と思ったためだ。

1969年にベトナム戦争の従軍兵士が、アポロ11号の月面着陸に意見を述べていた。「僕がジャングルで銃を撃ち、殺し合い、這い回っていた時に、月の上の3人のことでアメリカ中が沸き返っていた。何とも言えない怒りが全身をふるわせた」(NHK「映像の世紀・第9集」)もちろん従軍と私のささやかな告知の努力は、その重要性も、危険も、意味も違うし、私はここまでの怒りは持っていない。しかし似た面があるだろう。後方で汚れない立場にいる「インテリ」への、現場にいる者の不快感だ。

私の皮肉に、その関係者は不快そうに「それは東電と政府の問題」「関係ない」「科学コミュニケーションの役割を越えている」と返事した。その通りだ。けれども、それでいいのだろうか。

ネット上で話題になった「科学者が放射能騒動に関わらなかった理由」という文章がある。医学系研究者らしいが、まとめれば「騒動とかかわらなくてよかった。何のメリットもない」という文章だ。上に「カチン」としたのと同じ理由で、開き直るその態度に私は不快感を抱いた。

もちろん、すべての科学者がそうとは言わない。「真理はあなたを自由にする」(聖書)。無知が広がる現状を憂い、正しいことを伝える責任を果たそうとした、多くの科学者・専門家がいる。その理性の灯火を私は心強く思った。機会があれば、私は編集にかかわるGEPR で、そうした議論を紹介させていただいた。

しかし科学者・専門家は社会の危機に役割を果たしているのだろうか。放射能問題では2011年から12年までの大切な時期に取材をすると組織人、大学人、経済人は「名前を出したくない」「関わりたくない」という人ばかり。自らへ、そして組織への攻撃、批判を怖れていた。確かに事故当時、正確な情報を提供しようとした人に「「御用学者」狩り」などとする異様な言論がネットにあふれた。しかし、小さな個人のリスクから逃げ、専門家が「逃げる」行為が、デマを拡散する人々の横暴を許し、状況を混乱させた面がある。

それどころかタレントの中には大学教授など教職・研究者の肩書きを利用して、自分の名前を売り出そうと過激な言説をばらまいた人までいた。日本の専門家の質は平均値で見れば、能力の面でも、使命感の面でも、どうしようもなく、低いのかもしれない。

日本のエリートは俗事から離れることを、当然としているように思える。そのスマートさを「勝ち組」と讃える風潮もある。しかし、それでいいのだろうか。

どの社会でも専門家は、その知の力と地位を獲得する過程において、その社会からチャンスと支援を受ける。その見返りとして責任を引き受ける。どの職業でも「自らの仕事を通じて、自分の利益を確保すると同時に、よき社会をつくる」という内在する責任持つ。

一連の混乱は「専門家が責任を果たせなかった」「科学的な研究とそこから得られた知識が政策決定に活かされず、社会全体が無駄な損失を受け続けている」という「知の敗北」でもあるのだ。

私たちは「目の前の問題」に責任がある

福島原発事故の発生においては、運営を担ってきた東京電力、原子力をめぐる産官学の関係者が責任を負うべきである。その後に起こった混乱については、政治家、そして政府に責任がある。日本の大多数の人が、それを引き受ける必要はないし、決して免責されるべきではない。

しかし私たちは、そこから生じてきた「目の前の問題」に対しては責任がある。そして解決まで難しい問題が山積している。

放射能パニックでは、今も不安と恐怖にとらわれ、異様な行動を続ける人がいる。正直に言えば、私はこうした人に向き合うのはうんざりしている。しかし同じ同胞である以上、それを放置するべきではなく、何らかの救いを提供するべきと、思う。

科学的なデータと事実が、現状の放射能防護対策に適切に反映されていない面が多い。発生する負担と便益を可能な限り比較し、住民の参加で公開の形で決める。これがICRP(国際放射線防護委員会)などの推奨する政策だ。ところが日本ではその冷静な議論が行われず政策が決定された。そして「リスクゼロ」を追求するために、コストの先行きは見通せないほど巨額になっている。

冷静に検証すれば、数十兆円とも言える原発事故の対策費は合理的に縮小の方向に向かうだろう。今は科学的に意味のない1mSvまでの除染で、原発被災者が帰れない。1600人ともされる原発被災者のストレスなどによる災害関連死は、早期帰還が実現すれば大幅に減った。こうした政府の失敗を一つひとつ修正することは急務だ。入り組んだ問題を解きほぐすには、専門家による「知の光」が必要であろう。

福島県が誤った情報で物質的な面だけではなくイメージの面で破壊されようとしている。風評被害によって農作物が売れないという経済的な損失に加え、その住む地を「汚染」「危険」と誤った不正確な情報を流すことは、福島に住む人々の尊厳を傷つける。そして同胞と国土を不当に落としめる行為は、日本人全体の精神を腐らせる自傷行為である。

そして滑稽でもある。オリンピックの選考に際して外国の人々は「日本は放射能で汚染されている」という心ない言葉をぶつけた。それに対し不快感を持たない日本人など、特殊な思想を持つ一部以外はいないだろう。世界的な視野で見れば、デマは海外に反響して、デマ発信者を含めた日本人全体の被害をもたらしているのだ。正確な情報を広め、誤解と偏見を打ち破る責任は私たち一人ひとりにある。

原子力についてはさまざまな意見がある。しかし、すべての原発を、しっかりした手順、そして基準を設けず、いきなり準備なしに止めたことによって、震災以降、日本の電力会社は3年で、燃料費の割り増しとして9兆円の負担増をする見込みだ。電力会社を正当な理由なく困らせるという愚行の結果、電力インフラは危機にある。これは国民に転嫁される見込みだが9兆円の損失はもっと有効な使い道があった。

空想ではなく、知の力を使い現実的対策を

原発事故後、不必要な混乱が続いていることは日本社会の「知の敗北」だ。どの立場に立とうと、自分の職分の範囲で「福島事故への責任を果たさなかったこと」の総和がこの状況を生んでしまった。ここで取り上げた科学コミュニケーションの失敗、それを生んだ「専門家の無駄なことには関わらない態度」は原因のすべてではないにしても、大きな部分を占めている。

冒頭に皮肉を込めて、アントワネットの間抜けな言葉を紹介した。彼女は自分の生活と同じように、パンとお菓子が庶民の食卓に並んでいたと思い込んでいたという皮肉が発言に込められている。これは後世の創作の可能性が高いという。しかし仏革命史を読むと、この言葉の通り、自分たちのいる社会の現実に向き合わないアンシアン・レジーム(旧体制)の「責任ある人」が、頭の中に浮かんだ虚構の社会に対して妄想とも言えるずれた対応を行い続けた。それが結局、現実からの「倍返し」と言える復讐と、体制の崩壊につながり、責任ある人自らの死ももたらしてしまった。

同じことを現代の日本人は繰り返してはいけない。私たち一人ひとりが日常で現実を正確に見つめ、逃げずに今起こっていることに責任を果たす。福島原発事故をめぐり関われる範囲において、一人ひとりが日常で果たせる責任を引き受け、その成果の質を高めていく。それが事故の克服につながることを、私は信じたい。

特に問題について知識を持ち解決策を提案できる、また問題に関わる専門家の責任は重い。社会から遊離しては、どのような専門家も、存在の意味がなくなる。そして眼前で重要問題が進行しているのに、それに向き合わずに空論を繰り返すことは滑稽であることを、冒頭の言葉は教える。

今こそ、現実の混乱を収束させる、具体的な対策、そして責任を引き受けることが求められているだろう。このままではアントワネットの間抜けな言葉を、私たちは笑えない。

石井孝明
環境・経済ジャーナリスト
メール:ishii.takaaki1@gmail.com
ツイッター:@ishiitakaaki

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