日本の「おもてなし」は果たして世界に通じるか --- 岡本 裕明

2013年09月23日 11:27

2020年のオリンピック開催地決定での最終プレゼンテーションに於いて、滝川クリステルさんのフランス語でのスピーチは記憶に新しいかと思います。その中でも話題となった言葉、「おもてなし」について今日は考えてみたいと思います。

スピーチで述べられていた「おもてなし」の根源は、女史の財布の話もありましたが、どちらかというと店員の丁寧な応対や正確に来る公共交通機関、清掃と管理行き届いた町など「業とするサービス」の提供であって、個々人から発せられるものばかりではないような気がします。サービス業に従事される方も制服をひとたび脱げば、個人へと戻るわけです。そうなったときでも仕事中のような対応を他人にとれるでしょうか?


おもてなしの意味は表裏の無い心で見返りを求めない対応であって対価をもらう業としての行為はおもてなしではなく、サービスとなります。日本では旅館の接待を自分の家に来る人のように歓待するするという発想がなじみやすいものだったと思います。

私は年に4、5回ほど出張で日本へ向かいます。日本へ飛び立つ前のバンクーバーの空港にいるときからもうすでに日本だと感じるのは私だけでしょうか? 荷物を預けターミナルへ向かい搭乗を待っているときなど、ほんの数十分前まで道で知らない人と目が合っただけでも挨拶をしていたのが嘘のように誰ともコンタクトをとらなくなってしまうのです。

日本に着いてからも大変です。まだ空港内の駅はよいのですが、そこから自分の目的地へと向かう際、重いスーツケースを引きながら人並みをかき分けて進まなければなりません。そんな中少しでも止まろうものなら舌打ちが聞こえてきそうなくらいです。

また、カナダにいる時間が長い私にとって戸惑うことの一つがドアです。日本ではドアを開けたら自分さえ通れれば後から来る人のことはお構いなしでそのまま歩き去ってしまいます。北米では、大抵の人が後ろに誰かいるかを確認し、もし居るようならドアを手で押さえておいてくれます。

北米の肩を持っているように思われるかもしれないのであらかじめ断っておきます。ドアを押さえおいてくれる人は必ずしも笑顔ではありません。かといって嫌々やっているのでもありません。子供の時から体に叩き込まれた習慣なのです。

この習慣になれた外国人観光客が日本を訪れたとき、自分の方へ跳ね返ってくるドア、誰も目を合わせないのを目の当たりにして驚くのではないでしょうか?

私は何も日本を否定しているのではありません。素晴らしい国です。ただ、様々な分野においてガラパコスと称されるように「おもてなし」の部分でも世界の期待とは違うのだと思います。

では「サービス」はどうなのでしょうか? 日本でレストランでワインのことを聞いてサーバーさんが適切な答えをすることは少ないでしょう。食品のイングリーディエントを聞いたら100%答えは帰ってきません。サービス業はマニュアル化され、それが競争を生み、極度のサービスを提供しています。昔、ガソリンスタンドの店員が帽子を取って車が見えなくなるまで見送ったあのスタイルこそ、日本のガラパゴスサービスの原点かも知れません。

観光客は数週間しか日本にいません、そんな中で日本の深層まで体感することは不可能です。だからこそ、特別なことではなく、個々人が日々のささいな生活の中にちょっと気を配ることが大切なのではないかと思います。

日本にはおもてなしの心は確かに存在しています。ですが、最近、薄れている気もします。人の立場に立つ世界に通用する「おもてなし」は身近なところから始められる気がしませんか?

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2013年9月23日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。

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