個人の能力に見合った教育の必要性について

2013年10月06日 10:04

日本の教育が疲弊している。学級崩壊、モンスターペアレンツ、ゆとり教育などが話題になるが、この背景には、社会階層の分離による学力の二極化がある。

ここでは、学力の二極化を取り上げ、個人の能力に見合った教育の必要性を考えたい。


進行する学力の二極化

ゆとり教育による学力の低下がよく話題に上るが、実際に起きているのは、学力の二極化で、学力上層と学力下層への分離が進んでいる。

「学力の二極化モデル-全国学力・学習状況調査を中心として」を見ると、現在の全国学力・学習状況調査の結果を分析したところ、現在の学力分布は、見掛け上、一山型に見えても、成績の高い群(H群)と成績の低い群(L群)2つの正規分布の重ねあわせとして解釈でき、その面積比はそれぞれ35%、65%となるという。そして、これら二つの群は、家庭教育に熱心な群と、そうでない群と解釈できるという。 

クラスが、「できる子」と「できない子」の二つの層に分離してしまうと、学級経営が途端に難しくなる。一部の「できる子」や「できない子」は例外として存在しうるが、これが大きな集団として存在すると、学級崩壊が起こりやすく、現在行われている一斉授業が成立しなくなってしまう。

能動的学習の必要性

授業には、学習の動機づけ、学習内容の紹介、予習してきたことの確認などの意味があるが、学校の授業だけ聞いてれば、必要な学力が身に付く、というものではなく、家庭学習、自主学習が必要である。これは何故だろうか?

これは、授業の間だけでは、生徒が能動的に考えることが、十分にはできないからである。 授業の間、生徒は受け身であり、能動的に考えることは難しく、家庭学習、自主学習という能動的な学習があって、初めて学習が完結する。

生徒がノートや教科書、参考書を開き復習や予習、問題演習を行うことで、主体的に考えることになる。ここで、自分が理解できていない部分がはっきりし、それを理解しようとする努力が始まる。 実際に自分で頭を動かさないと、物事は理解できないし、身に付かない。

これは、タブレットを使って、自宅でビデオ授業や、プログラム学習をした場合でも同じで、機械を覗き込んでいる中は、子どもの脳のワーキングメモリーは映像を追うだけで、殆ど消費されてしまい、能動的に考える余裕はない。この場合でも、画面を覗き込んで、それに反応しているだけでは、学習は完結しないのである。 

このように、子どもの学力向上には、学校外における子どもの能動的な学習が鍵を握っている。 

家庭の教育力の減退と生活指導に追われる学校教育

現在の、日本の教育を考える上で、家庭の教育力の減退と、それに伴う、教師の負担増を考えなくてはならない。 既に学力の二極化で、学級運営が困難になっている状況下で、教師は生活指導、学習規律といった授業外の教育により多くの時間を割かなくてはならない状況にある。 このことは次の記事:「元塾講師が見た学校現場 ~ママ世代公募校長奮闘記(11) 山口照美」を読めば良く分かる:

現場に来て痛感するのは「学力以前の課題」を抱えている児童が多いことだ。授業を受けて理解するには、十分な睡眠に裏付けられた体力がいる。それなのに、夜遅くまでゲームや携帯いじりで寝不足、朝ごはん抜きで学校に来られると、どれだけ教師がいい授業をしても届かない。

 以前このコラムで紹介した養護教諭の岡部先生が中心となり、あの手この手で「早寝・早起き・朝ごはん」を子ども自身に意識させるよう、取り組んでいる。

(中略)

 生活習慣の課題をクリアすると、次に「学習規律」の課題がある。時間を守る、忘れ物をしない、人の発言を集中して聴く。学校に来るのがやっとという児童には、これまた難問だ。公立小の先生達は、本当に粘り強い。「40人学級で学力向上」を求めるのは、かなりハードな注文と言える。

このように、生活習慣、学習規律といった、従来は、家庭内のしつけで対応していた教育まで、教師の負担になっており、小中学校の教師(恐らく高校も)は、授業よりも、生活指導に時間を取られている実態がある。教師の負担は、家庭の教育力の低下と共に増えている。

また、注目すべきなのは、ゲーム、携帯電話といったアイテムが、子どもの脳を侵食していることである。実際、携帯電話や、ゲームを使っている時間は、子どもたちは、殆ど能動的な脳の使い方をしておらず、機械からの刺激に子どものワーキングメモリーは食い潰されてしまい、子どもたちは受動的に反応しているだけである。 

こういったICTやゲームに使う時間を、たとえば読書に振り替えることが出来れば、静止した活字からの脳の刺激は、脳のワーキングメモリーのごく一部を使うだけで、子どもたちは、本の作者の世界に入り込み主体的な思索を行うことができるのであり、そういった意味で、家庭における学習環境づくりは、子どもの学力向上に決定的に重要な役割を担っているといえよう。

このことは、イギリスのエリート教育をモデルにした全寮制の中高一貫私立校「海陽学園」が初年度から素晴らしい進学実績を示していることからも窺える。

前記事で紹介した、高速インターネット回線の普及が学生の数学力、読解力を低下させ、学力格差を拡大するという研究結果は、家庭環境の差が、インターネットの学力への影響に格差をもたらしている可能性を示唆しているように思われる。

教育力のない家庭では、子どもが、ゲームや携帯いじりに時間をとられ、思考しない子ができ、一方、教育熱心で経済力のある家庭では、子どもを塾に行かせる。こうして子どもの学力格差は拡大する。

教育制度改革の必要性

こうしてクラス内の学力格差が拡大した状況でも、教師は、平均的学力の生徒を念頭においた授業をするしか仕方ない。その結果、成績上層、下層の生徒は授業がつまらなくなる。 しかも学力の二極化が進行し、教育のメインターゲットである中間層は薄くなっている。

その上、指導要領で学習内容が固定されているため、成績下層の生徒が、分からなくても、先に進む以外に選択肢はない。 この状況で、小中学校の教師に1クラス40人もの生徒を教育しろ、というのは土台無理な話であるし、経済的な余裕があれば、子どもを塾に行かせる親が増えるのも当然のことだ。 

これを解決するにはどうしたらよいのだろうか。 これにはシンガポールの教育制度が参考になるだろう。 

「シンガポールの教育制度」を見ると、小中学生は、熾烈な競争に晒される一方、5年生からは、主要科目では、標準、基礎の2つの能力別クラスに分けたり、小学校でも留年制度が存在するなど、生徒個人の能力に合った教育が行われている。

しかも、学力下層にも、それなりの教育システムが用意され、キャリアパスが用意されているため、学力下層が希望を失い、学習意欲が削がれることもないようである。

現在、日本では高校生の半数程度が大学に進学しているが、シンガポールの大学進学率は4分の1程度である。 高度な教育を多くの人に施せば、国民全体の学力が向上するというのは幻想で、弊害ばかりが目立っているように見える。 個人の能力に見合った教育を行うべきだろう。

実際、大学を大衆化したフランスでは、大学での職業教育を充実させるといった政策が取られている(「フランスにおける大学教育の職業化 (professionnalisation)とその有効性」参照)。

日本の教育制度を急に変えるのは難しいが、前記事で指摘した、少人数での思考力を育てる教育の必要性や、今回取り上げた、個人の能力に見合った教育の必要性を考え、疲弊している日本の教育を立て直したいものである。

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