日本からは今世紀中にはノーベル経済学賞は生まれない

小幡 績

今年のノーベル経済学賞受賞者が決定した。

金融資産の価格決定というテーマ設定がすばらしいことは、前のエントリーで述べたが、ここでは、日本人が受賞できない、ということについて考えてみよう。

ノーベル賞の中で、日本人が受賞していないのは、経済学賞だけだからだが、日本のメディアでは、日本人が受賞できない、という話題がより重要性を占めている。

そんなことだから、日本から受賞者が出ないのだ。

原因はそこにある。


日本人として、今、一番近いといわれているのは(それでもかなり遠いが。私は受賞しない可能性が高いと考えている。なぜなら、受賞してもおかしくない人は多数おり、取る可能性がある人と取る人とは100分の一ぐらいあるからだ)、プリンストン大の清滝信宏氏である。

しかし、彼が日本人であるかどうかは、どうでもいいことなのだ。

つまり、重要なのは、国籍や人種ではなく、研究拠点をどこに置いているか、なのだ。

かつて、米国に長く在住している研究者が、ノーベル賞を受賞して、日本人受賞者として日本の取材人が殺到したが、本人は、そういわれることに違和感を感じていたような雰囲気があったが、まさにそういうことなのだ。

重要なのは、日本の大学などの研究拠点が価値あるものかどうか、「場」として、どれだけ人類の英知を生み出すことができているか、ということなのだ。

ほかの分野では、日本人受賞者が、近年続いており、日本人の理科の能力の高さを指摘されることもあるが、それは関係ない。ノーベル賞を取るかどうか、は才能ではなく、環境と努力だからだ。

重要なのは、それらの研究者が、日本の大学を研究拠点として選んでいたことにあるのだ。だから、中国人やインド人あるいはスウェーデン人が日本の大学で研究しており、彼らが受賞したとなれば、それは、日本人が受賞した以上に、日本にとって意義の大きいことなのだ。

ハーバード大学経済学部にはジンクスがあり、ハーバードにいる限りノーベル経済学賞が取れない、というものがあった。ハーバードは紛れもなく経済学で世界トップであるが、ノーベル賞は、ハーバードを出て行った瞬間に受賞することばかりだったのだ(マスキンは衝撃的だった。ロスはぎりぎりハーバードだった)。

重要なことは、ノーベル賞の受賞実績となった研究をどこで生み出し、その後、一流となった研究者が、ノーベル賞受賞まで、どこに身を置いていたのか、ということが重要なのだ。

その実績は、学会では直ちに評価されるから、ノーベル賞受賞前から、オファーが殺到する。だから、そのような研究者は、さらなる研究の発展のために、好きなところを選べる。彼らが選んだ場所というのは、研究環境としてベストのところはずなのだ。だから、受賞時にどこにいるか、というのは、どこにいたときの研究実績であるかと同様にきわめて重要なのだ。

前述の清滝信宏氏は、ハーバードでPhD(博士号)を取得後は、米国、ロンドン、そして米国と移っている。LSE(ロンドン)のときの実績が一番の核となるだろうが、いずれにせよ、日本ではない。したがって、彼がノーベル経済学賞を受賞した場合には、日本人としては、悲嘆にくれなければならないのだ。

つまり、そんな才能あふれる日本人が、日本という母国ではなく、外で研究を続けていたことに。

逆に言えば、日本の大学は、批判を受けながらも、かつては、知を生み出し続けていたのであり、近年までは、彼らの欧米への流出を抑えるだけの価値は持っていたということなのだ。

最近、iPS細胞の研究者が米国へ流出したことは、したがって、もっとも憂うべきことなのだ。

ノーベル経済学賞を受賞する、日本の研究機関を拠点とする経済学者は、今世紀中には出ないだろう。

それが私の悲しい予言である。