学習能力と頭の柔らかさ

2013年10月27日 09:22

最近、サイエンスに、「ボランティアの被験者に対して各種の質問を行うという実験を行った結果、被験者が質問に対する答えを知らなかった場合においては、その答えを探す手段としてネットでの検索を思いつき、さらにその情報を後からでも再度入手できるということを認識した場合にはその情報を記憶しないという傾向があった」という研究が発表された。 


ネット検索は我々の外部記憶になりつつあるようだ。 

必要な情報は直ぐに手に入るし、難しい計算は、ソフトがやってくれる。 こうしたテクノロジーの進歩は、一見、知識を詰め込んだり、難しい理論を学んだりすることの意味を否定しているように見える。

しかし、本当にそうだろうか? ここでは、この問題を学習能力の獲得という視点から論じてみたい。

学習能力を身に付けることの必要性

学校教育で学習する内容は、基礎知識として極めて重要だが、仕事の上で直接役に立つものばかりではない。たとえば何百年も前の歴史を学んで何になるのか、と思った人も多いだろう。

しかし、それだからと言って、学校教育を否定したり、内容を削減しようというのは誤りだ。なぜなら、学校教育は、自ら学ぶ力、つまり学習能力を身に付けるのが目的だからだ。

リーマンショックから5年経った今も日米欧では本格的な景気回復は起きておらず。先進国は深刻な財政危機に陥っている(世界経済の潮流2013(内閣府)参照)。さらに欧州で失業率が高止まりし、アメリカでも失業率が未だに7%台と高いことを見ても分かるように、今後、機械化、情報化、新興国へのアウトソーシングにより、低スキルの仕事の多くは消滅し、今後、景気回復が起きても雇用が回復しない可能性は高いと思われる。

従って、グローバル化した変化の速い世界の中で働き続けるには、常に新たな知識やスキルを身に付けなければならない。この時、必要なのが高い学習能力なのだ。
 
前記事で書いたように、学力の二極化のために、日本では、多くの中高生が学習意欲を失っている状況だが、これは上に述べたように学力の低い人間が生き難い世の中になっている現在、非常に危機的な状況だと言える。実際、偏差値30台の子は「社会に出ていけない」「生活できない」という可能性が大きいという。読み書き、算盤はしっかりやっておかないと取り返しが付かない。

「資本主義の行き詰まりと格差の拡大 」で書いたように、既に、新たなフロンティアが失われた現在、資本主義を維持しようとすれば、社会的弱者は搾取のターゲットになる。所謂ブラック企業は批判されるべきだが、ブラック企業が現れるのは、それが資本主義の論理からは合理的なビジネスモデルであるからに他ならない。

このように、自分の身を護るには、学習能力を高める必要がある。

頭の柔らかさという基礎学力

それでは、学習能力の高さ、低さを分けるものは何だろうか? これは、基礎学力を身に付けていることは勿論だが、頭の柔らかさだと思う。

大学教育に携わっていると、学生の学習能力の差は歴然と存在することに気付く。

たとえば、大学のゼミで学生にテキストを読ませると、読みの深さの個人差は著しい。優秀な学生は一回のゼミで10ページも進むことがあるが、出来ない学生だと数行しか進まない。 本人は読めていると思っても、説明になっていないし、分かっていないことが多いのだ。

優秀な学生と出来ない学生の違いは、頭の柔らかさだ。

一例を挙げれば、ゼミで、学生が「有界な閉区間上の連続関数は一様連続」という定理を解説した後で、「一様連続ってどういうこと?」、「一様連続な関数の例は?」、「この定理で、閉区間を開区間に変えると?」、「連続で一様連続でない関数の例は?」、「じゃあ二次関数は実数直線上、一様連続なの?」といった質問をすると、多くの学生は答えられない。

この場合、教科書の内容を自分で咀嚼していれば、答えられるのだが、教科書の論理の流れを漸く理解できるというレベルの理解に留まっている場合、教科書に書いてあることしか答えられない。なぜなら、教科書の内容を受動的に理解しているだけで、自分で定理の適用例を考えるといった主体的思考ができていないからである。

これでは、折角、山にハイキングに行ったのに、登山道を外さないように足元だけ見つめ、美しい景色を見ないで歩いているようなものだ。教科書の内容を自分のものにして、自在に応用するには、教科書の内容を起点に自分の頭を働かせて、イマジネーションを膨らませなくてはならない。こういった思考の自由度を獲得すること、そして、その結果として物事を俯瞰する視点を持つことが応用力を身に付けるのに欠かせない。 この思考の自由度が、所謂、「頭の柔らかさ」なのだ。

このように学生の主体的思考が出来ていない場合、教師の側は、質問をしながら、それを促すことになるわけで、質問に答えるまで数十分の沈黙が続くといったことも普通であるし、答えが誤っている場合には、正答を誘導する別の質問をするということになる。

大学教育の大きな部分は、こうした、頭を柔らかくする訓練であると言ってよい。そして、その役割は少人数で行われるゼミや演習が担っていると言える。現状の大学教育では、未だにマスプロ教育が主体であり、アメリカの大学のように、大人数の講義と少人数に分かれた演習を組み合わせるといった工夫が必要だろう。

しかし、頭を柔らかくするというのは、上に挙げたゼミの例から分かるように、主体的に考えることであり、それには、裸の自分の実力と向き合う勇気が必要だ。孤独に耐え、一人で物事に立ち向かう力が必要なのだ。 

文献やネット検索、他人の力を借りるのではなく、外界との関係を遮断し、一人で考えさせること、これが、私の教育のエッセンスだ。

如何にテクノロジーが進歩しようと、学習能力を身に付け、頭の柔らかさを持って生きることが必要だ。 先日、数学専攻から、国立大の情報系の大学院に進み、修士課程卒業後ヘッドハンティングの会社に勤めている、優秀な卒業生に会ったが、彼は、「人生、頭が良くないと楽しくないでしょう」と言っていた。専門外の仕事に就いた彼だが、学習能力の高さを生かして、立派に生き抜いてくれるだろう。

追記: 学習能力を高めるには、上に挙げた、学習能力を高める訓練を大学からではなく、中高の中から始めることが必要だろう。このことについては稿を改めて書きたい。

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