少子化は、個人と国家の間の「ケンカ」である --- Nick Sakai

アゴラ

少子化が深刻です。平均寿命が伸びているのに、支える側が減り、年金・医療・介護などの社会保障が回らなくなってきています。人口の減少は生産と消費の減少要因で、経済が縮んでいます。

元来、人間は利己的な生き物です。しかし、個人が利己を希求すると、社会の発展に繋がると伝統的な社会契約論や資本論の教科書には書いてあります。One for All, All for One です。実際、戦後の高度成成長期は、まさに個人と国家の蜜月時代で、池田内閣の所得倍増計画や田中内閣の日本列島改造論など、国民が豊かさを求めて頑張ると国全体が豊かになり、そうすると国民はさらなる豊かさを求めてもっと頑張るという好循環がありました。国家と国民の仲が実によかった。


しかし、今は違います。個人と国家が喧嘩をしているのです。両者の利害関係が一致していないので、国民が幸せになろうとすると、国家がうまく回らないという状況で、その象徴が少子化です。

メディアでもこの問題に様々な原因分析が試みられます、彼らの主張は、概ね以下の三つに集約されます。一つは、雇用不安です。終身雇用が機能せず、非正規雇用が進み、子供を養うほど稼げないか、今は大丈夫でも先行きは不安だという、政府や企業への雇用政策の批判です。二つめは、保育園が少なかったり、育児休業が進まないなど、政府の社会政策の批判。最後に、若者が「草食化」して、がつがつと恋愛、結婚、子作りすることがなくなったという、個人の性向への帰着です。しかし、こうした分析は、やや浅すぎて、本質を見逃しています。

私の考えはこうです。「将来が不安で子供を作らない」のではなく、むしろ逆で、「将来が安心過ぎて、子供を作る必要を感じない」のです。三丁目の夕日の時代を思い出して下さい。ノスタルジックに「古き良き時代」と懐かしむ向きもあるでしょうが、それは、結果的にその後うまく豊かさを手に入れたことを我々が分かっているから、余裕を持って後付で語れるのです。冒険小説のハッピーエンドを確認してから、読み返すようなものです。

当時は先行きの不透明な時代で、生きている人は必死だったのです。米ソ冷戦は深刻だったし、安保闘争で政権がひっくり返ったし、公害問題も深刻で、いまよりも、よほど先行き不透明な時代でした。何せ北朝鮮が地上の楽園だという妄言が信じられていた時代です。庶民の暮らし向きは少しづつ良くなってはいましたが、多くは、今の生活保護水準なんかより、ずっと貧しかったのです。新宿や渋谷などの繁華街には乞食が多くいました。エアコンもなく、70年代前半までは、庶民は、肉や果物も滅多に食べることができなかったのです。

そんなに貧しく、先行き不透明な時代に、人々は多くの子供を設けました。それは、子供を産み、育てるということが、自分の将来を安定させるだろうという計算があったからです(もちろん、それだけが理由では決してありませんが)。「貧乏人の子沢山」といって、貧しい家庭ほど多く子供がいました。若い時に苦労して、子育てをして子供を一人前の大人に育てあげれば、自分が歳をとって働けなくなった時に、面倒を見てもらえるという期待があったのです。それは古くからの知恵です。「子供は社会の宝」であると同時に「一家の宝」だったわけです。

当時は、老人ホームも介護保険も年金もなかったので、子供がいなくて働けなくなることは、生命の危険に直結しました。例え金銭に恵まれていたとしても、お金でケアを買うようなことはできなかった。人々は、病院や老人ホームのベッドではなく、自宅の布団で子供に看取られて最期を迎えた。従って、子供を産むということは、利率のいい投資であったし、リスクをヘッジできる保険であったのです。

しかし、今は人々を安心が包み込む夢のような時代です。介護保険が整備され、かつては家庭が担っていた老人のケアは、市場に組み込まれました。子供がいなくても、潤沢な若年労働力を安価で買うことができます。お金があれば、手に入るサービスの量と質は青天井です。ホテルのような施設で、優雅に終末ケアを受けることができるようになりました。それほどお金がなくても、順番さえ待てば、特養に入所できますし、無一文でも、生活保護を受ければ、昔の市井の人々より余程豊かな生活が迎えられるわけです。今や日本は世界一の長寿国です。

だからもう子供を産むことで老後リスクをヘッジすることはないし、子育てのコストと将来のリターンを考えれば、子供はいい投資ではなくなってしまったのです。「子供は社会の宝」ではあり続けるのですが、もはや「家族の宝」ではないのです。そう言えば「子宝」などという言葉を最近あまり聞かなくなりました。いじめにお受験、育ててみたらニートになって親の年金にすがって生きる「不良債権」となるリスク。とても割に合わない。
だったら、さっさと子育てなんかやめて、「お一人様」の人生を「自分らしく」生きて行けばいいというように思うのは極めて自然な発想です。都合のよいことに、今はグローバリゼーションに伴う産業空洞化で、労働力の供給はほぼ無尽蔵にあります。このため、代替の効く安価な労働力を簡単に購買することができます。大学出の赤の他人が、甲斐甲斐しくオムツを替えてくれます。

しかし、よく考えれば、その大学出も何処かの親が手塩にかけて育ててきた子供なわけです。介護ケアが完全にロボットで代替できない以上、自分は若いうちに独身生活を楽しみ、老後は他人の育てた子供に頼るというのは、全く公平ではありませんし、正義でもない。誰かが割りの合わない仕事をさせられて、金銭的には損をしている。蟻とキリギリスの寓話に擬えれば、まさにフリーライダー、すなわち「ただ乗り」のキリギリスの勝利です。

というわけで、日本政府は、とても皮肉なことに、家庭内にあった労働力を、長い時間をかけて社会保険の整備という形で金銭化、外部化、市場化して、国民の最低限の責務である子供を産んで育てるという作業を放棄するようなインセンティブを与え続けてきたのです。端的にいえば、国民を甘やかし続け、ただ乗りを勧めてきたわけです。

社会保障の進んだ長寿国で、少子化が進むのは自然な流れです。誤解を恐れずに言えば、手厚すぎる社会保障は国家のマネージメントを根底から危うくする亡国の政策なのです。ちなみに、よく、介護ビジネスが成長戦略の柱だという主張がありますが、それは今まで家計が負担してきたコストを単に金銭化して市場に組み入れただけの話で、新たな価値を産んでいる訳ではないのです。タコが自分の足を食べているようなもの、粉飾決算です。

従って、少子化を止めるには、待機児童の削減、育児休業制度の充実やイクメンの奨励といった対症療法では歯が立ちません。人間は基本的に面倒くさがり屋で、打算的な生き物ですので、精神論をいくら唱えても望み薄でしょう。もっと、根源的でシンプルなソリューションが必要になります。それは、「子供を産まないという選択を、おいしくなくする」以外にはありません。

原理的には、子供を産まない人にデイスインセンティブを付加するか、子供を産む人にインセンティブを与えるかの二つの策がありえます。しかし、後者だけに頼ると、膨大なコストがかかります。例えば民主党の子ども手当。絶対に、持続不可能です。なんらかの財政中立の施策を講じなければいけません。ただし、生活保護費のデフレスライドを部分実施しただけで騒ぎ出す無責任な世の中ですから、社会保障の削減は容易ではありません。しかし、これは絶対に避けて通れない道です。
税と社会保障の一体改革は、財政の安定化の観点からのみ議論されていますが、財政が安定しても国民がいなくなっては意味がないので、財政赤字の止血よりも、少子化の止血を真剣に考えるべきでしょう。

Nick Sakai
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NPO法人リージョナル・タスクフォース、代表理事