長期停滞の時代

池田 信夫

サマーズのIMF講演がいろいろ話題を呼んでいる。「1993年には日本のGDPは現在の2倍になるとクリントン政権は予想していた」というが、それが今のようになったのはなぜだろうか?


一時は日本政府の経済運営がまずいからだと思われていたが、日本の人口増加率から考えるとバブル期の成長が過大で、本来のトレンドに戻っただけだ。同じような長期停滞(secular stagnation)が、アメリカにも起こっているのかもしれない。それは財政・金融政策ではどうにもならないので、もう裁量的なマクロ政策はやめたほうがいい、というのが彼の示唆である。

クルーグマンも基本的には賛成し、アメリカも人口増加率が0.2%ぐらいになるので、成長が減速することは避けられないという。リフレや財政政策も短期的にはきくかもしれないが、長期的にはサマーズが正しいだろう。

マーティン・ウルフも世界が日本のような停滞に入るおそれが強いと指摘し、それは「世界金融危機の前に見られた金融の行き過ぎが以前からの構造的な弱さを覆い隠していたからだ」という。構造的な弱さとは、世界的な貯蓄過剰(あるいは投資不足)である。

長期停滞論は、経済学の歴史とともに古い。最初にそれをとなえたのはマルサスだったが、リカードはそれを「収穫逓減」という形で理論化した。マルクスも「利潤率の傾向的低下」をとなえ、ケインズも長期停滞論者だった。市場経済の中のスミス的発展には限界があり、それが18世紀に中国が成長の限界に達した原因だ。

そういう主流派に唯一、反対したのがシュンペーターだった。人口が飽和しても、イノベーションで生産性を高めることができる。戦後の歴史はシュンペーターが正しいことを証明したようにみえるが、ここにきてそれはあやしくなってきた。もちろんイノベーションは大事だが、それは需要があっての話だ。人口の減少する国では、需要逓減が起こるのだ。

世界的にみると新興国の消費意欲は旺盛なので、ウルフもいうように貯蓄過剰の先進国の資金を資金不足の新興国に投資するのも一つの方法だろう。しかし中国も貯蓄過剰になっており、ここでも需要不足が成長を制約している。

資本主義の歴史は、スミス的発展の限界を植民地からの掠奪でカバーして資本を蓄積するマルクス的発展だった。それは露骨な帝国主義から戦後の資本輸出による<帝国>型のグローバル支配に変わったが、世界的な需要不足という慢性の病が資本主義の限界を示しているのかも知れない。