「ゆとり」復活阻止! 国公大2次学力試験廃止反対 --- 増沢 隆太

アゴラ

せっかく退治されたかに見えた「ゆとり教育」がまた形を変え、復活するかもしれない。

政府教育再生実行会議が、国公立大入試の2次入試において「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止という意見が報道されたが、これには強い懸念を覚える。実際に国立大学の学生を指導する立場と、学生のキャリア支援をする立場から、絶対評価による点数選別は「絶対」に欠かせないと考えるからである。


問題点は2点ある。まず新聞などの見出しを見て瞬間的に感じたことは「ゆとり教育の二番煎じ?」かというものだ。「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」「知識偏重」が諸悪の根源であるかのような、昔からある入試制度批判の結果導入され、日本の未来を崩壊に導くことにつながったゆとり教育への反省は無いのだろうか。

実は報道はセンセーショナルではあるものの、10月31日の教育再生会議「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について(第四次提言)では、単に2次試験の筆記を廃止するというようなラディカルな主張だけではなく、むしろ大学人が多数を占める会議委員の本音は「アドミッションポリシーと大学入学者選抜において求めている能力とのギャップ」(を埋めたい)という点にあるのと読むことが出来る。

そうだとすれば、2次の「筆記廃止」はむしろその目的に逆行しかねない。特に理系では数学等の基礎学力がなければ研究を進めることは困難であり、AO等で入ってきた理系学生がついて行けずに退学した話は実際にある。基本的な知識、学力はそもそもの高等教育の土台であり、一部の底辺校のような、高等教育が成り立たない環境と国公大の置かれている立場は別であると認識すべきである。

「グローバルな環境対応」できる人材を育てるのが高等教育の目的の一つなのであれば、「教養」こそグローバル人材には欠かせない素養の第一である。グローバル、つまりは言葉や文化を超えて通用するインテリジェンスは「考え方」そのものである。「思考訓練」として、論理展開の素養を身に着けるため、受験勉強のツメコミ教育によってまず知識を入れることはすべての基礎となる。優秀な大学生・院生たちは、当然のことながら受験で培った学力を有しており、そうした力強い土台を持つ学生を、グローバルな社会に送り出すのは正に大人の役割である。

二次のペーパー試験重視がすべての問題を解決する魔法でないことはもちろん理解している。筆者はキャリア教育科目を多数担当しており、偏差値だけ高スコアを取れる、ツメコミ知識だけ、つまりは正解を生み出すパターン思考だけで受験を成功させた一流大生が、就活を迎えたとたんに挫折する実態を多数見てきた。知識偏重だけですべてが完了などあり得ないことは当然なのである。しかし基礎訓練として受験勉強をクリアした学生に対し、さらに「考えるトレーニング」を施すことで、社会の基幹人材として世に送り出せていると感じる。

もう一点大きな問題がある。

それは「人物評価」という言葉のまやかしである。あたかも面接をすれば、ペーパーテストで図れない人間性や魅力がわかるという前提ですべての話は進んでいるが、これが実態を全く反映していない。人事の世界で長く面接官の指導をしてきたが、ほとんど専門の面接トレーニングも受けていない大学の教員に、わずか数十分の面接で人物を見抜くことはおよそ不可能である。素人面接官が陥りがちな「押し出しの良さ」や「希少な経験の有無」という、受験勉強以上にマニュアル化された評価を生み出しかねないのが面接の怖さである。一方で論文審査は大学教員にも向いているものだが、同時に非常に大きな時間とエネルギーを要するという課題解決の方法は示されていない。

繰り返すが、「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」がベストであり、それがすべての問題を解決する手法であるなどとは全く考えていない。しかしまた高等教育の実態と現実的な時間とコストの観点から、面接や論文審査がペーパー試験の優位点をくつがえすほどの説得力があるとはとうてい思えない。

「新卒一括就活がすべての悪の根源」、「受験勉強こそ悪の根源」といった、ゼロか百かではなく、教育再生会議本来の主旨である「アドミッションポリシーと大学入学者選抜において求めている能力とのギャップ」を埋めるためには、むしろ厳格に入試の点数に固執する伝統を維持することこそ、国公大のあり方であり、何より社会が求める人材輩出の姿である。

増沢 隆太
東京工業大学大学院 特任教授
人事コンサルタント