科挙官僚の袋小路 - 『ロスト・モダニティーズ 』

池田 信夫
ロスト・モダニティーズ ―中国・ベトナム・朝鮮の科挙官僚制と現代世界
アレクサンダー・ウッドサイド
エヌティティ出版
★★★★☆



中国は18世紀前半まで世界の最先進国であり、所得においても技術においても文化においても超大国だった。それを西洋が抜いたのはなぜか、という問題は多くの歴史学者が論じてきたが、その逆の「東洋的停滞」がなぜ生じたかという問題はあまり論じられてこなかった。本書はそれを官僚機構の面から論じる。

貴族が政治的・経済的権力をもって割拠している社会を「封建的」、中央集権的な国家が国民を直接支配している社会を「近代的」と呼ぶとすれば、中国は科挙によって10世紀ごろには近代社会になっていた。しかしそれは試験で選ばれたきわめて少数のエリートであり、彼らは全国を転々とするため、民衆との距離が遠かった。

国家の権威を支えたのは儒教だったが、これは民衆を熱狂させるような文学性がなく、官僚の必須科目として教え込まれただけだった。彼らは西洋の官僚に比べれば知的水準ははるかに高く、文書管理という点では卓越していたが、その統治は「読書人」による民衆から遊離したものになりがちだった。

中国の政治が専制君主の独裁だったというのは神話で、むしろ科挙官僚たちは民衆の貧困を憂慮し、分配の平等化をはかった。5世紀にできた租庸調と「均田法」は――少なくとも理念の上では――農民に等しく土地を与えて公平に税を取ろうという計画経済の元祖だった。しかしこの理想は現実に裏切られ、大地主に土地が集中し、農民は貧困に苦しんだ。

これに対して西洋の国家はキリスト教の影響が強かったため、宗派対立による戦争が日常的に繰り返されていた。これを終わらせるため、政教分離や国境の画定が行なわれ、特定の宗派の権威ではなく非人格的な法の支配で国家を統治するシステムができた。

西洋では政治と宗教の距離が近すぎるため、民衆の宗教的熱狂による戦争を防ぐ必要があったのに対して、中国では政治と民衆の距離が遠すぎるため国家に求心力がなく、国家と資本家が一体になって植民地を開拓することもなかった。このため中国では技術が成熟すると、労働投入の収穫逓減が起こり、マルサス的な人口問題に苦しんだ。

科挙官僚は最高の知識人だったので政治と学問の距離が近すぎ、中国では国家や宗教的権威から独立した科学が育たなかった。これに対して西洋の科学はキリスト教から生まれてそれを否定し、経験的な技術を体系化することでイノベーションによって収穫逓減の罠を脱却した。

こうみると日本の官僚は、西洋の合理的官僚よりはるかに科挙官僚に似ている。彼らにとって何より重要なのは国家秩序の維持であり、その中で(主観的には)民衆の福祉を向上させる温情主義である。秀才は官僚になるので、政治と学問の距離が近く、民衆との距離が遠い。いま日本の政治が陥っているのも、中国が迷い込んだのと同じ「失われた近代」の袋小路なのかもしれない。