現在の日本の大学教育に必要なのは、「改善」ではなくて「革命」

松本 徹三

6月20日付の「公共教育の目標」という記事を出した後に、数回に分けて初等教育を中心に色々と語ってきたが、高等教育のあり方については敢えて触れてこなかった。高等教育、特に大学教育については思うところが色々あり、まとめてじっくりと議論したかったからだ。


一言で言うなら、今の日本の大学教育は全く駄目だ。世界の色々なランキングで日本の大学が上位に入れないでいるから言うのではない。理念がはっきりせず、運営体制も合理性を欠いている事を私は問題視している。結果として、日本の大学生は平均すれば諸外国の大学生に比べてはるかに少ししか勉強していない。勉強している時間も短いし、集中度(参加意識)は更に低い。これでは「国力を牽引する有為な人材を育成する」という目標等は到底果たせるわけはない。ここにメスを入れようとすれば、「改善」等という生易しいものではとても間に合わない。「革命」が必要だ。

日本の大学制度は明治時代に始まる。東京大学を始めとして各地に国立大学が設立され、私立大学も次々に作られた。「日本という国を欧米の水準に近づける為に必要な人材を育成する」という明確な目的があったので、話は簡単だった。しかし、現時点では、「大学の目的」というもの自体があまりはっきりしていない。日本経済の高度成長期には経済的に大学に行ける人たちの数が着実に増え続け、一方では「大学を出ていないと社会に出てから何かと不利」と殆どの人たちが考える様になっていたので、需要増に支えられて大学の数も増え続けた。しかし、ここに来て、多くの大学が経営難に喘ぎ、先行きに不安を抱える様になっている。

需給バランスの変化によって競争が激しくなるのは望ましい事で、潰れる大学がどんどん出てきても、これは当然の事だし、一向に構わないと思う。しかし、問題は、競争が「教育の質の高度化」をもたらすかどうかだ。現在の状況ではそうはなりそうにない。

大学は「教育の場」であると同時に「研究の場」でもあり、実際に大学に進学する人たちの中には生涯大学に残って研究を続ける人たちもいる。しかし、それは比較的少人数であり、多くの学生たちは、就職に必要な「XX大卒」という「看板」を得る為に大学に行っているに過ぎない。毎年新卒を大量に採用する企業も、「XX大卒なら少なくとも受験勉強に耐えた頭脳と忍耐力と生真面目さがあった事は間違いない」という事で、この「看板」を重視しているようだ。(大学での教育には殆ど期待していない。)これでは大学間の競争は「看板価値」の競争にしかならない。

大学の目的は何か? 考えてみれば答は単純だ。「有能な研究者(学者)」と「営利企業や公共団体(国の各省庁を含む)に就職して良い結果を出せる人材」を育成する事だ。前者には大学に残るケースと外部の研究機関等に移るケースの二つがあろうが、このカテゴリーに該当するのは、大雑把に言えば学生全体のせいぜい1割程度で、学生の大部分は後者に該当するものと思われる。特に「文系」と総称されている学生においてはこの傾向が顕著であろう。

日本の大学は「研究者を育てる場」としてもあまりうまく機能している様には思えない(だから有能な人たちは「より良い場」を求めて米国等に行ってしまう)が、この問題はまた別の機会に論じるとして、ここでは、先ずは「普通の企業や公共団体に就職する事を目指す普通の文科系の学生」にのみ焦点を当てて考えてみたい。

大学を経済的に支えているのは「学費を払っている学生(実際はその保護者)」と「納税者(特に国公立の場合)」である。だから、大学はその両者を「顧客」と考えなければならず、大学の経営者は「どうすればこの顧客の求めるものを提供出来るか」をいつも考えていなければならない筈だ。しかし、実質的に大学の経営を行っている「教授会」のメンバーにそういう意識を持っている人たちは殆どいないと言ってもよいだろう。大学で力を持っているのは「研究者(学者)として実績を挙げた人たち」であり、この人たちは要するに「権威者」であり、一般の人たちを見下している人たちも結構多い。

本来は、大学といえども、経営者、即ち「どうすれば顧客の期待にこたえられるか」をいつも考えている人たちによって経営されるべきなのだが、そもそもそのようなカテゴリーに該当する人たちが大学の上部構造にいる事は稀である。それどころか、学生の立場に立って「教育はかくあるべき」という事をいつも考え、そのスキルを磨く事に情熱を持っている人たちの存在すらもが稀であると思う。

「大学の使命を大きく分けるなら、2割が研究、8割が教育である」ともし仮定するなら、少なくとも教員の8割は、自分の研究と同等或いはそれ以上の情熱を「教育効果の向上」という目標に注いでいて然るべきではないだろうか? そして、多くの教員たちがもし本気でそれを考えているのなら、「今のやり方は明らかにおかしい」と気付いて、既にそのやり方を抜本的に変えていて然るべきだ。

「全ての授業をそうするべき」とまでは言わないが、実験等を伴わない通常の「文系」の授業をもっと効率的にするには、例えば下記のような方策が最も有効であろうと、私は常日頃から思っている。

  1. 「教室」は、刺激に満ちた「質疑応答と議論と簡易テストの場」と再定義し、「講義」自体は、全て非リアルタイムの電子的手段(ネット配信)によって行う。
  2. ネット配信される講義は、「ビデオ」と「OHP資料」の組み合わせとし、講義内容に関連して読んでおくべき関連資料等があれば、そのURLもこれに添付する。

  3. 学生は何時でも自分の都合に合わせてこれを視聴する事が出来、よく理解出来ないところがあれば、そこだけを何度でも繰り返して視聴出来る。
  4. 一般的な質問はメールによって行い、教員及びそのアシスタントは48-72時間以内に回答する。但し、重要な質問については、教員の判断で「回答は後日教室にて行う」と連絡するに留める事が出来る。
  5. 3回の講義に対して「質疑応答や議論の場」としての「教室」を1回開く。但し、聴講者の多い「講義」については、同じテーマの「教室」を2回以上重複して開き、少人数での交流を可能にする事も考える。
  6. 「教室」での小テストは常時行い、「教室」への出席が少なかったり、小テストの結果がおしなべて悪かったりすれば、単位は取れない。勿論、これとは別に厳しい期末テストもある。

このようなやり方をすれば、学生は時間の制約からは自由になるから、働きながら大学で学びたい人たち等には大きな朗報となるが、学生の負担(勉強量)は勿論大幅に増える。しかし、これでやっと米国等の一流大学並みと考えるべきだ。また、自分の論理の立て方や発表の仕方を、他の学生たちの前で教員から直接批判される訳だから、緊張感は格段に高まるだろうが、これこそが教育効果の向上にとって最も役立つものだと評価されるべきだ。

しかし、もしこのような改革案が実際に教授会に付議されたらどうなるだろうか? 恐らく大方の「権威ある先生方」は色々な理由を付けて反対し、こんな改革案は簡単に潰されてしまうだろう。誰も自分たちがこれまで慣れ親しんできたやり方を変えたいとは思わないし、「教育効果等と七面倒くさい事を言われるのは真っ平御免」と思っているに違いないからだ。「そんな事をしたら自分の書いた本を学生たちに売りつける事が出来なくなるじゃあないか」と本気で怒る先生方もいるかもしれない。

しかし、もしそうならば、その先生方には、今後は自分の研究に没頭して頂き、大学のもう一つの重大使命である「教育」には以後一切口を挟まないで頂くのが良いだろう。更に言うなら、「教授会」というものは、「大学の経営についての決議機関」ではなく、単なる「アドバイザリーボード」とし、経営自体は全く異なった組織体制によって行われる事にすべきだろう。

しかし、こうしてもなお問題は残る。大学当局自体も、自ら進んでは決してこのような改革をしないであろうという事だ。「顧客である学生がそれを望まないからだ」と言われれば外部からは反論出来ないし、実際にこのような厳しいやり方をする教授の教室は、負担増を望まない学生たちには敬遠されるだろう。

しかし、その問題は解決出来る。成る程、一義的には大学の顧客は学生とその保護者だが、実はその背後には一般の企業や公共団体がいるのだという事を忘れてはならない。そもそも、学生が有名大学を目指す主たる動機が、「就職に有利」「就職後の昇進等に有利(らしい)」という事なのだから、一流企業は、実は「大学のあり方」について絶大な影響力を行使出来る立場にあるのだ。現実には各企業はこの影響力を殆ど利用しておらず、大学での「教育の質の向上」に一向貢献していないのは、単純に各企業の人事関係者が怠慢なだけだ。

各有力企業や経済団体等が、「大学での授業はかくあるべき」という明快な意見書を出した上で、それを実行している大学や教授名を公表して、「その授業で単位を取っている学生に対する評価は当然高くなる」と明言すれば、競争環境下にある各大学は、もはや「改革」を逡巡している訳には行かなくなるだろう。自ら厳しい国際競争に曝されている各企業は、学生たちに対し「もっと勉強しろ」と明確に伝えるべきだし、その教育を担う大学にも、「もっと効率の良い教育をしろ」と注文を付けるべきだ。