「細胞」は覚えている --- 長谷川 良

アゴラ

エピジェネティクスという言葉がある。DNAの配列に変化はなく、細胞の分裂後にも継承される遺伝子に関するもので、「細胞記憶」と呼ばれている内容だ。

簡単な例を挙げる。マウスが餌を食べる。その時、快い匂いを流す。マウスが食べようとすると、軽い電流が流れ、マウスはビックリする。その実験を繰り返していくと、マウスは匂いを嗅ぐだけで怖くなる。2代目のマウスにも同じ実験をする。「エサと匂い」の関係を学ぶのに第1世代は3カ月間を要したが、2代目のマウス、そして3代目のマウスになると、その学習時間は急速に短くなる。マウスのDNAに変化はないが、細胞が「エサと匂い」の関係を記憶した結果というわけだ、細胞がどのようなメカニズムでその経験を記憶し、子、孫にそれを伝達するのか、細胞記憶のメカニズムはまだ不明だという。


「恐怖心も遺伝するか」というタイトルの記事がオーストリア放送サイエンスの中で紹介されていた。恐怖心はその人間が遭遇した体験に基づくものだが、その心理状況が直接体験していない後世代にも継承されるという。「細胞が記憶している」というのだ。

知り合いに腎臓移植した女性がいる。彼女は、同じ血液型だが、女性ではなく男性の腎臓を移植された。その後、インシュリンの注射を打つ必要なく、好きな食事を楽しむことができるようになった。ただし、ジョキングをすると、決まって無性に速く走りたくなること、以前は好きだったシャケの料理を食べる度に発疹するようになったというのだ。同じような話がある。心臓移植した女性が心臓の持ち主のヒロインが好きだった男性を見るたびに心臓が激しく鼓動するというストーリの韓国のドラマだ。この種の話は結構聞くが、学問的にはまだ実証されていない。

最近は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされる人々が増えてきている。強い悲しみ、寂しさなどを体験すると、その心の痛みはその体験が経過しても後々まで続く。戦場で傷ついた兵士たちにも帰国後、そのような傾向がみられる、という調査結果も報告されている。

「細胞記憶」という言葉を聞いた時、人類始祖のアダムとエバの話(失楽園)を思い出した。旧約聖書の創世記によると、アダムとアバは神の戒めを破り、罪を犯した。キリスト教ではその罪を「原罪」と呼ぶ。その罪は今日まで代々継承されてきたという。

どのようにしてアダムとエバの原罪が代々継承されていったのか、科学的に理解しようとすると容易ではない。しかし、「細胞記憶」という内容はその理解を助けてくれるかもしれない。もちろん、その場合、「細胞記憶」された内容をどのように消却させるか、といった新たな問題が出てくる。キリスト教の場合、メシア(救い主)の降臨という話が出てくるわけだ。

ところで、アダムとエバは原罪を犯した時、どのような心理状況に陥ったか。創世記によると、「神の声を聞いて、……恐れた」という。人類が最初に感じた「恐怖心」は、怖いものを見たとか、聞いたとかではなく、「神から離れてしまった」という自覚から生じてきたわけだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年12月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。