天皇とミシュラン ~ 竹田恒泰氏の趣味的愛国心(1) --- 入谷 秀一

2013年12月10日 07:00

巷で話題の、竹田恒泰氏の新書を二冊ほど読んでみた。

私自身は、この血統麗しい旧皇族の御尊顔をテレビを通じて拝見するより以前に、その辺のブックストアーの新書コーナーにうず高く積まれた新書を瞥見して、名前だけは存じ上げていたのだが、それにしても新書のタイトルにこれほどの嫌悪感を抱いたケースは、めったにない。『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』、『日本人はいつ日本が好きになったのか』――この二冊が私が拝読したものだが、他に『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』なんて本もあるらしい。流行の「なぜのか」文体をそのまま踏襲している。私はいつも神経を逆なでされる思いがする。


新書などしょせんそんなものだ、といえばそれまでだが、本の中身は見事なまでのパッチワークだ。例えば『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』では、日本のポップカルチャーの広がりだの、ミシュランガイドに掲載された東京の店の数だの、mottainaiが英語として通じるだの、トルコは親日国だの、だれもが聞いたことのある話が羅列されている。著者は冒頭で、英国のBBC放送が「世界に良い影響を与えている国」と銘打って33カ国を対象に行った調査報告を取り上げている。著者によればそれは、どうやら「よい影響を与えていますか」という質問に対し、はい・いいえで答えるものらしく、その総合評価で日本がトップに立っていることを理由に、「日本がいちばん世界で人気がある」と断じているのだ。

まあ、それがどうした、である。そもそもこの場合の「よい影響」とは何を指すのだろうか。あるいは、日本が世界でいちばん「人気がある」と仮定して、その人気が何だというのだろうか。それほど人気があるのに、なぜ国際的な紛争解決や地球規模の環境問題の討議といった場において、日本の影がこれほど薄いのだろうか。人気などというのは、単なる気分的なものに過ぎず、それはディズニーのキャラクターが世界で愛されている、というのとさほど変わらないレベルの話ではないだろうか。
 
竹田氏の日本礼賛から、私は、ほとんど気分的なレベル以上のものを得ることはできない。要するに、心情主義であり、ありていに言えば、浪花節である。例えば彼はこう断言する。「人類普遍の摂理によれば、特別な虐待を受けたりしない限り、子は親を愛するものであって、…国民は国家を愛するものである。」(同書、28頁)――ベトナム戦争で心の壊れた帰還兵となったランボーのセリフが思い出される。「俺が望むのは、俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛してくれることだ。」しかし現代っ子の竹田氏の情念は、少なくとも著書を読む限り、拍子抜けするほどの明るさと軽さを帯びている。彼の愛国心を支えるのは、ミシュラン東京の星の数であり、東京のフランス料理店でフランス人に賞賛されるフランス料理を食べた経験である。要するに内輪の家族主義だ。「好き」という軽薄で抽象的な感覚が、「愛する」という、崇高さをアピールして止まない情念に平気で転化される。たんなる趣味嗜好が民族的な正当化の手段と化す。日本は和の国である、とか、日本人は自然を大事にしてきました、などといった、その辺の中学生でも知っているようなステレオタイプの日本観が、臆面もなく登場する。

論理的なちぐはぐさは、そこかしこに見られる。日本人の自然信仰なるものを語るさいには、こんな具合に議論が展開される。

「まず進化論を肯定する場合は、人の先祖は猿人であり、遡ればすべての生命の起源は、地球の海中にはじめて生命が誕生したときまで遡ることになる。したがって、進化論を肯定する立場に立てば、現代人の先祖は、時代を遡るほど大自然に拡散していく。神道において大自然は神であるから、この価値観によれば、人の先祖は神であることになろう。」(同書、154頁)

「この価値観」とは、文脈的には直前の神道のことを指しているのだろう。しかし文章の前段は、科学的な進化論を肯定した場合の話をしていたはずなので、「神道において…」以下の二文が奇妙に浮き出ている印象を受ける。要は、入れる必要のない文が挿入されているのだ。もしかすると筆者は、進化論からも神道的な価値観が導き出されるといいたいのかもしれないが、「神道では自然は神である」というテーゼを一方的に挿入しているだけなので、論証でも何でもない文章になっている。この後の文章も、ついでに引用しておく。

「いずれにしても、進化論の真偽と、創造論・天孫降臨の事実性はともかく、人の先祖は神たる大自然であると結論づけることができる。このことは、なにも宗教の話をしているのではなく、極めて科学的な考え方であろう。日本人は、先祖を拝む延長線上に、さらなる先祖にあたる神たる大自然を畏れ敬ってきたのであって、このような原始時代から一貫した日本の伝統的価値観は、ごく自然な発想に基づいているのではあるまいか。」(同書、155頁)

こうなると、もう無茶苦茶である。科学的といいながら、進化論の真偽を「ともかく」と切り捨ている。また、人の先祖が自然であるという事実判断と、それを畏れ敬うべしという価値判断とを、混同している。前者から後者が帰結するのが「ごく自然な発想」と断ずるのは、およそ論証に値しない。彼は母校で憲法学を講じているらしいが、慶應義塾大学の学生はさぞ論理的思考が鍛えられているに違いない。ちなみに竹田氏は日本人の和の精神は、なぜか論語の君子論を基底にしたもので、自らの主体性を堅持しながら他と強調する精神である、と論じている。揚げ足取りかもしれないが付言しておくと、主体性(subjectivity)と言う概念は近代的なもので、聖徳太子の時代から日本人が連綿と実践してきたものである、という議論は短絡的としか言いようがない。
 
しかし何といっても秀逸、かつ醜悪なのはやはりタイトルだ。「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」――この「なぜ」という疑問文に対する答えとして著者が用意したのは、ともかく「われわれ」は外国人に好かれていて、その外国人が好きなモノは何らかの形で天皇という存在と結びつけられるという、旅行ガイドの域を出ないような散漫な感覚的確信である。まあそれは、よい。しょせん新書である。私が気になるのは、タイトルが象徴するような、ともかくも他者から好かれていることを確信したいという受動的な情念の構造である。これこそ、まさしく、日本人的な心性に他ならない。

三島由紀夫の小説『絹と明察』の登場人物の一人に、駒沢善次郎という事業家がいる。情にもろく、エネルギッシュに働き、自らが経営する製糸工場の工員を我が子のように愛している、と自認して疑わない男である。その工場で、労働条件の改善を求めて大規模なストライキが起こる。実際には死人も出るほどの劣悪な労働環境の中で、あなたは本当に工員を我が子のように愛していたのか、と、ストライキの首謀者である大槻青年に問いつめられ、駒沢は言う。

「むしろわしが愛されてたんや。わしのほうから愛する暇もないほどに。……その美しい絆をあんたらがばらばらにしよったんや」(『絹と明察』、258頁)

これが「人類普遍の摂理によれば子は親を愛するものである」という心情の顛末である。子が親を裏切るはずがない、なぜなら子によって自分が愛されているからだ。愛する、という行為が先にあるのではなく、愛されているという認識が先にあるのだ。『日本人はなぜ世界でいちばん人気があるのか』のタイトルは宣言する。われわれは世界で最も愛されている。そしてわたし(竹田氏)は、万世一系の天皇という存在に帰着する(とわたしが信ずる)この愛という情念の代弁者である。対するに、私が抱く違和感の正体はこうだ。つまり私は、そんな情念に関して、あまり身に覚えがないのだ。あるいは、もしあったとしても、それ自体に価値を見いだせないからだ。アニメやラーメンが好かれているからといって、それが何だというのだ。しかし彼は言うだろう。何、身に覚えがないだって?愛されているくせに、それが分からないやつは親不孝者だ。裏切り者だ!そして裏切りものが罪深いのは、まさに文字通りに、実在するに違いないはずの「愛」を裏切ったからに他ならない。彼の本に興味のない者たちは、単なる傍観者ではない、裏切り者である、とまあ極論すればなるだろう。無論、この論理にわれわれは見覚えがあるはずだ。国体という「物語」は、われわれの情念および生存を一身に管理していた制度であり、大槻青年言うところの「よく企まれた感情の福利施設」(『絹と明察』、267頁)以外の何物であったろうか。

愛されているという安心感を、私は否定するつもりはない。しかしその安心感は、他者を巻き込み、同時に他者を文字通り「他者」、すなわち共同体に背く人でなしとして排斥するような暴力装置に、易々と転化する。ともあれ、ミシュラン片手に愛国心を語る竹田氏の口ぶりからは、その血統とは対照的に、退屈なステレオタイプの日本人礼賛しか聞こえてこない。それはそれで現代的な若者ということか。

入谷 秀一
大阪大学招聘研究員・兼・非常勤講師

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