靖国神社に「政教分離」はありえない

2013年12月27日 12:39

安倍首相の靖国参拝を批判する人は口をそろえて「憲法の政教分離の原則に反する」というが、靖国神社は本来の意味での宗教施設ではない。きのうの記事でも書いたように、国家神道は天皇制を神聖化するために明治政府の偽造した政治的イデオロギーで、およそ宗教といえるようなものではないので、安倍氏は特定の宗教を支持したわけではない。


宗教は国家権力を支える精神的権威だから、ユダヤ教でもイスラム教でも宗教的な律法が国家の法律であり、中国でも儒教が皇帝の正統性を支える国教だった。特に中世ヨーロッパでは、皇帝の権力は精神的権威に依存していたので、教皇との長い叙任権闘争の後、国家が教会を支配下に置くようになった。

しかし近代の市民革命のほとんどは(アメリカ独立革命を除いて)カトリック教会への反逆に始まった。彼らは国家と教会の癒着を批判し、個人は信仰のみによって救済されるというパウロ主義への回帰を主張した。カトリックは国家権力と一体になってこれを弾圧したので、ルターは「二つの王国」論で教権と俗権の分離を主張した。

そして内乱の続いた17世紀のイギリスで、それを収拾するために出てきたのが政教分離だった。それは宗教戦争を停戦するための寛容の原則だったのである。それを論じたジョン・ロックの『寛容についての手紙』は、「国家は個人を強制できるが救済できないから、世俗的権力は個人の内面に介入すべきではない」と論じた。

結果的には、このように複数の宗派の共存を認めたことが、キリスト教の求心力を弱め、無神論が広まった。共和制は宗教的権威なしで国家権力を支える実験だったが、イギリスは立憲君主制という形で象徴的な中心を置き、アメリカやフランスも大統領という元首を置いた。それはかつてのような絶対性はないが、一種の精神的権威として国民を統合している。

靖国神社は、このような西洋の政教分離の伝統とは無関係な、天皇制のイデオロギー装置である。それが戦争に大きな役割を果たしたのは、もともと政治の一部だったのだから当たり前だ。したがって靖国に政教分離なんてありえない。そこには「政」と分離して存在する「教」がないからだ。

「どこの国でも戦争のために命を落とした英霊を慰霊するのは当然だ」という話もよくあるが、ちっとも当然ではない。戦争では非戦闘員も大量に殺されるのに、なぜ兵士だけが慰霊施設にまつられ、遺族は年金をもらうのか。それは戦争という個人的には不合理な(しかし国家的には必要な)行動を奨励する装置なのだ。

靖国神社から「A級戦犯を分祀する」なんてナンセンスだ。それは国家神道の中で名簿を書き換えるだけで、靖国そのものが政治的装置なのだから意味がない。A級戦犯だけが戦争を起こしたわけではない。戦争をあおったマスコミも、それに熱狂して旗を振って兵士を戦場に送った国民も含めた無責任体制が、あの戦争の原因である。

その伝統は今も残っている。責任の所在を明確にしないで、みんなで相談して何となく「空気」で決める意思決定が、日本の政治や経済の行き詰まる原因だ。リーダーにはそれを突破する合理的な指導力が必要だが、安倍氏は支持層に忠誠を誓う非合理主義を世界に表明してしまった。これでいちばん喜ぶのは、外交的に行き詰まっていた中国や韓国だろう。

今度の事件で安倍政権が「戦争に向かって暴走する」とは、私はまったく思わない。アメリカという強力なブレーキがあるので、よくも悪くも日本は単独で戦争はできない。憂うべきなのは、戦前の無責任体制の象徴である靖国に首相が忠誠を誓ったことだ。そこにまつられているのは、かつて戦争への道を開き、今も日本人を呪縛する「空気」なのである。

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池田 信夫
アゴラ研究所所長 青山学院大学非常勤講師 学術博士(慶應義塾大学)

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