原子力はなぜ嫌われるのか。

伊東 良平

毎日新聞が1月23・24日に行った世論調査(都内の有権者を対象に電話による)によると、都知事選の最大の争点を、「少子高齢化や福祉」と答えた人が全体の26.8%、「景気と雇用」が23.0%、「原発・エネルギー問題」は3番目の18.5%だった。新聞や週刊誌が面白く取り上げている原発問題について、一般有権者は実際には大した関心を持っていないようである。一方で、『「脱原発」抗議行動が倍増』という報道もあり、都知事選の告示後に脱原発を訴える抗議行動に参加した人が倍増したらしい。

私自身は脱原発論者ではなく、加圧水型軽水炉は早く再稼働させた方がよい、と考える立場だが、友人には反原発論者が多く、フェイスブックでは連日のように原発を批判した記事や学者の論説が送られてくる。これらを読んでゆくうちに、反原発を唱えている人達の考えに一定の共通点があるように思えてきた。それは、池田信夫さん等が指摘するような原発に対する無理解ではなく、原子力というものそのものに対する、一種の信仰である。

アゴラでは以前から、原発問題を中心にエネルギー政策について様々な視点から論じられてきたが、なぜ原子力がこれほど嫌われるのか、という文明論に踏み込んだ論説は少なかったように思う。原子力政策そのものは、都知事選の論点には本来なり得ないのだが、都知事選のテーマとしてマスコミがやたらに「原発問題」を採り上げるので、なぜ原子力が嫌われるのか、を小生なりの視点でまとめてみた。大きく分けて2点ある。

1.原子力は人類が使ってよいものか

原発に反対する人の思考の一つに、化学反応より踏む込んだエネルギー源を、人類は利用してはならない、という考えがある。

地球には絶えることなく太陽から熱エネルギーが降り注いでおり(もちろん太陽にも寿命はあるが、人類の存続より短いことはない)、そのエネルギーを基に地球上で(光合成を含む)なんらかの還元反応が起き続ける限り、地球という枠内で考えればエントロピーは減少し続ける。人類は還元反応の起きた物質を再び酸化させることでエネルギーを得、文明を発展させて来たが、原子核分裂反応で熱エネルギーを得るということは、太陽とは異なる熱源を地上に作りだす、という行為に当る。これは、人類が行って良いことなのか。

つまらない哲学論争だが、「反原発」を唱えている人は、どうもこのような思考を脳裏に持っている。化学反応までは人類は関わってもよいが、原子核の形を変えることまでは、人類が踏み込んではならない、という一種の信仰である。これは笑い話に思えるが、有機化学の研究が進んだ19世紀始めには、生物を構成する有機化合物を人類が合成するようなことをしてはならない、という宗教的批判が現実にあった。もちろん、このような(哲学的)批判を乗り越えたからこそ、創薬や食品加工によって人類は現在のような長寿を手に入れたのだが、そのこと自体が全地球的な生命循環を阻害している、と主張する”エコロジスト”は現代でもいる。

もし、原子核反応によるエネルギーを人類が利用してはならない、と信じているならば、そう信じている人に対して、原発の安全性や事故被害の実態、エネルギー政策やマクロで見た経済合理性を説いても、なんの意味もない。それは、原子力を人類は用いてはならない、という”信仰”があるからである。イスラム教徒に対して、神の姿を描くことに何の問題があるのか、という問いかけをするようなものであり、合理的な”説明”は全て無意味だ。

2.原子力は、身近なエネルギーたり得ない

人類が原子核反応をエネルギー源として「実用化」した例は極めて少なく、思いつく限り、爆弾、空母、潜水艦、そして原発しかない。民生利用は原子力発電だけである。原子核反応自体は、遺伝子組換やリニアック治療など民生でも利用されているが、エネルギー源としての民生利用は原子力発電所だけである。技術的には原子力で動く豪華客船や、原子力を用いた地域暖房などが可能なはずだが、実用化された例はない。それは、核物質がテロに悪用される可能性があるため当然のことだが、つまりは、国家が管理しなければ原子力の民生利用は不可能、ということを意味している。

そう考えると、国家に対する不信を持つ者は、原子力の利用に対して不信を持つのは当然である。国家とはなにか、という神学論争にまで踏み込まなくとも、単純に、国家を信頼していない者は原子力に信頼を置かない。国家があってこそ人は生きて行ける、と考える”右寄り”の人間は原子力に嫌悪感はないが、国家こそ人の幸福を脅かす最大の根源である、と考える”左寄り”の人間は原子力を嫌う。

また、廃棄物に対する意識も、身近なエネルギーたり得ない原子力ならではのものがある。公害発生の原因は火力発電や水力発電も決して小さくないのだが、火を日常的に使わない人間はいないし、重力を用いていろいろな仕事をさせることは、身近に行われる。したがって、火力発電や水力発電で公害が広がっても、自分自身が公害発生の加害者にもなり得ることから、大きな問題には感じられない(感じたくない)。しかし、原子力の利用がもたらす公害は、個々人が公害の発生源になることはないため、怒りしか感じられない。日常的に放射性廃棄物の「ゴミ捨て」を行っていれば(医療関係者にはこういう人もいるだろう)、「核のゴミ」も安全に処理を行えばよい、と理解できるが、汚染の発生源が限られ国家がその処分に関与しなければならないとすると、そういう技術は人類が用いるべきではない、という“信仰”もある程度理解できる。

上記は非常に乱暴な議論だが、上記1./2.のどちらかに該当する「反原発」論者には、原子力に関する合理的な説明は全く無意味である。だからと言って、これらの考えを全く無視してはならない。それは”世論”だから。

以上、素人の戯言につきあっていただき、恐縮でございます。

伊東 良平
不動産コンサルタント