“現代のベートーヴェン”からの教訓 --- 長谷川 良

アゴラ

「現代のベートーヴェン」と呼ばれた作曲家・佐村河内守氏(50)の自白とゴーストライターの記者会見の内容は日本ばかりか、海外でも報道された。音楽の都ウィーンでも佐村河内守氏の問題は伝えられた。

少し、遅くなった感じもするが、当方が感じてきたことをまとめてみた。
 


日本からの報道を聞いて、「どうして18年間も分からなかったのか」という素朴な疑問とともに、「全聾で、原爆被爆地の広島生まれの作曲家」といった同氏のプロフィール(一種のキャッチフレーズ)がなかった場合、「同氏が作曲した曲は評価されただろうか」と考えた。

同氏のプロフィールをまとめる。

「広島で被爆者の子として生まれ、独学で作曲を学んだ。35歳の時までに聴力を失った。佐村河内氏が作曲したという『交響曲第1番《HIROSHIMA》』は、2008年に広島で開催された主要8カ国議長サミット記念コンサートで演奏された。同CDは18万枚売れた。佐村河内氏は国内外で“現代のベートーヴェン”という名声を得た」

ネット情報によると、有名な音楽評論家もゴーストライターが作曲した曲を高く評価していたというから、その曲は音楽的価値があったのだろう。しかし、「耳が聴こえて、東京出身の作曲家」(すなわち、普通の新進作曲家)だったら、佐村河内守氏が発表した音楽は同じように高い評価を受けただろうか。

音楽を含む芸術作品の評価は非常に難しい。時代は違うが、あのモーツアルトですら、ウィーンの貴族社会での評価は芳しくなかった。モーツアルトの作品を最初に評価したのはプラハの人々だった。

ベートーヴェンやモーツアルトの音楽を酷評すれば、「お前は音楽を知らない」と馬鹿にされるだけかもしれないが、21世紀の今日、新しい音楽家が作品を発表し、高い評価を受けるためには、作品だけで十分だろうか。やはり、セールスポイントが必要だろうし、人々の心を掴むキャッチフレーズが大切だろう。

ゴーストライターが書いた曲が「現代のベートーヴェン」という評価に相応しい水準にあったとすれば、自身が堂々と発表すれば良かったはずだ。それを影の作曲者の立場に甘んじたのは、やはり「全聾で、被爆地広島出身の作曲者」というプロフフィールが音楽の評価に大きな影響を与えることを良く知っていたからだろう。

私たちはいい悪いは別として、作者や作曲家のプロフィールを重視する。換言すれば、私たちが独自に評価を下す前に権威者の評価を大切にする。「あの人がいいというのだから」といった受け取り方だ。

音楽に限定して考えてみよう。どれだけの人が聴いた曲を純粋に芸術的観点で評価できるだろうか。大多数の人は専門家や権威者といわれる人たちの評価に頼る。なぜならば、私たちは評価できる専門知識も能力を持ち合わせていないからだ。
 
その意味で、佐村河内守氏のような不祥事は今後も生じるだろう。なぜならば、私たちは自分の感性で芸術作品を評価したり、観賞する習慣を久しく専門家や権威者に委ねてしまっているからだ。私たちは折り紙つきの作品しか分からなくなってしまったのではないだろうか。

話は少し飛ぶが、デンマークの童話作家 ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「裸の王様」をご存じだろう。2人組の詐欺師が、「馬鹿には見えない特別の布地」で作ったという触れ込みで王様に服を織る。出来上がった服を見に来た王様は何も見えないが、馬鹿と思われたくないので何もいわない。家来も路上の見物人も同じように馬鹿と思われたくないのでその服を称賛するが、一人の子供が王様の裸姿を正直に語ったという話だ。

偽ってきた佐村河内氏とゴーストライター、音楽関係者、一部のメディア関係者の責任は重いが、私たちも「現代のベートーヴェン」事件から教訓を学ぶべきだろう。難しいことだが、専門家の評価はガイドブックとして利用するが、自己の感性を磨き、音楽を含む芸術作品に素直に向かい合うことが大切ではないだろうか。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年2月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。