頑張って生きるのが嫌な人は、死ぬ自由を行使するべきなのか

常見 陽平



海猫沢めろん先生の最新作『頑張って生きるのが嫌な人のための本』は、不思議な本だ。「自由になりたいんだ」そう言って死んだ友人Kのエピソードから、話は始まる。死ぬことは自由の一つなのか?


Kはめろん先生よりも10歳近く年の離れた友人だったという。めろん先生と出会った時のKはまだ16歳。

めろん先生は、彼のことをこう振り返っている。

人を寄せ付けない尖った雰囲気があり、非常に聡明で、いろいろなことを考えすぎてしまう少年でした。

めろん先生と出会ってから7年後にKは亡くなった。部屋のドアノブにひもをくくりつけて首をつった。

「自分がこの世界で行きて、本当にやり遂げたいこと。それは死ぬことだ。生きていて、『自分の興味があることをやれ』って、みんな言うけど、興味があるのは死ぬことなんだ」

生前、Kが言っていた言葉だ。彼は、自殺する自由を行使したのだった。

亡くなった3日後、骨壷を持ったご両親と喫茶店で対面したのだという。

果たして死ぬことすら、自由なのだろうか。

この本は、Kのことや、海猫沢めろん先生自身の体験を通じて、また時に哲学や宗教の言葉を引用しつつ、「自由とは何か」という究極の問いに向き合った本である。

友人の自殺という重いテーマと向き合いつつも、めろん先生らしく、実に飄々としていて、カフェで彼と語り合っているかのような、あるいは手紙を読んでいるかのような空気感だ。

ただ、サブタイトルは「ゆるく自由に生きるレッスン」とあるのだが、そこにワクワクするかというと、そうでもない。自由を語るめろん先生の言葉から、逆に自由になるということは難しいということに気付かされる。私はそう感じた。

「自由」か。

「もっと自由になりたい」やや自分語りになるが、私の人生もそんな衝動と模索の繰り返しだった。幼稚園で割烹着を着せられた瞬間、「自由」が欲しいと思った。小学校の「時間割」なるものがいやだった。中学校では制服が嫌になった。私服で通える自由だと評判の進学校に入ったのだが、金持ちと天才がいたし、結局、周りは受験勉強をしていた。嫌になって授業中はずっと寝るか読書をしていたけど、まったく自由ではなかった。尾崎豊の「15の夜」風に言うと「自由になれた気がした」だけだ。その後の大学生活も、会社員生活も、現在のフリーランスの生活も、自由だと感じたことはあまりない。ただ、朝の電車に乗らなくていいのと、昼からビールを飲んでもOKな日があること。そんな「プチ自由」を楽しんで生きている。

「平凡な毎日」を「受け入れる」という著者のメッセージには激しく同意する。ただ、それはそれで大変なことである。だからこそ、まず普通に生きるという行為は、それだけで褒められるべき、素晴らしい行為なのだと思う。

著者自身が不思議な本だと書いているが、いや、そのとおりだ。ただ、自殺してしまった友人K、まるで刑務所のような厳しい規律がある全寮制の高校出身で、卒業後は様々な仕事を転々とし、現在は作家をしているめろん先生の人生という、一見すると極端な事例だからこそ、著者からの問いかけを通じて、どうやったら自由になれるのか、気持よく生きられるのかというヒントが得られるのだと思う。

「自由とは何か」

議論のキッカケになる本である。そう、この本は単に読むだけでなく、誰かと感想を述べ合うことで、自分の自由観などが整理される本だ。

なお、著者の海猫沢めろん氏とは、来週、対談をする。何部かにわけて、ブログで無料公開する。また、Podcast「陽平天国の乱」でも配信する。さらに、3月29日(土)には、ゲンロンカフェにて公開対談するのでお時間の有る方は遊びに来て欲しい。

自由っていったい何だと思う?死ぬことも自由?

陽平ドットコム~試みの水平線~