“新しい”雇用 ~ ポイントは、3つ!

玄間 千映子

産業競争力会議で検討されている“新しい”雇用管理の考え方。

この考え方で、注目すべきは3カ所あると思います。

 この管理を適用するには「職務内容(ジョブ・ディスクリプション)」の用意が必須であり、前提条件だとしたこと

 基本となる考え方は「ペイ・フォー・パフォーマンス」であって、「ペイ・フォー・アウトプット」とはしていないこと

 「ペイ・フォー・パフォーマンス」と、勤務時間との関係で2つの勤務体系を提示していること

これら3本がこの「“新しい”雇用管理の考え方」の骨子だと、私は捉えました。

ところで、わざわざ「職務内容(ジョブ・ディスクリプション)」と「ペイ・フォー・パフォーマンス」と明記してあるにもかかわらず、「残業代ゼロ!?」と、世の中を煽るメッセージが駆け巡っています。 (@_@;) 

これらの理解が届かなければ、こういう誤解が生じるのもごもっとも。

そこで、少し書いてみることにしました。


□ 「職務内容(ジョブ・ディスクリプション)」

この表記ですが、「職務内容」を英語でいうと「ジョブ・ディスクリプション」って、いうのかな…というような感じがしませんか?

でも、これって「卵(エッグ)」というのと違って、全く別ものなのです。

日本の多くの組織で使っている「職務内容」という言葉の意味合いは、担当業務の内容とか、職掌や職務に伴う権限のような情報で構成されていると思います。

それに対し、「ジョブ・ディスクリプション」は上記のような内容が、賃金と紐付けられている活動を記したものとなります。

そういうことから文書に表れてくる内容も違ってきますが、特に違うのは、賃金(評価)とのヒモ付けが明瞭化されている文書が「ジョブ・ディスクリプション」ということになります。 φ(.. )

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□「ペイ・フォー・パフォーマンス」と、「ペイ・フォー・アウトプット」

「パフォーマンス」という言葉は、「パフォーマンスが、いい」というような使い方もするためか、「効果」とか「効率」ということと混同されて認識されることがあるようです。

けれども「パフォーマンス」という、この言葉は「行為」とか「方法」という意味であり、「効果」とか「効率」ではありません。

「行為」とか「方法」というのは、「結果」に至る“過程”の所の活動を指しますね。
結果というのは、自分の気持ちだけで作れるものではありませんが、“過程”の部分の活動は自分の努力次第、どのようにでもなる部分です。
つまり、「ペイ・フォー・パフォーマンス」とは、「努力に見合う、賃金を」ということなのです。

「おいおい、それなら毎日、会社で働いているのは努力をしていないって事かい?」なんて、声も聞こえてきそうですが、そうではありません。
社員は誰でも一生懸命、努力している。
その努力の方向がですね、会社の期待する方と違っていたとしたら、空回り…ってことになりませんか?

そこのズレが、最大の問題なのだと私は思います。

日本の労働時間が多いという、今の現状はそういう事なのではないでしょうか。
…もし、会社の期待する方向とバッチリ合っていたとしたら、会社の生産性に反映されてこないはずはありませんよね。

けれど、現実はそうでもないことが多くなっている。
なので、タイムカードではなく、その時間の中での努力してくれている様子を直接みましょうね、ということを考えるようになったわけです。  あ、これは私の一人言です。 f(^ー^;

(ところで、この“過程”のイメージに、最初に計画したものを実行に移すというような「工程管理」的イメージを抱いてしまうと、“箸の上げ下ろし”のような膨大な量のマニュアルとなります。

幸い、日本人には“試行錯誤”という非常に優れた、馴染みのある活動パターンがありますね。
あの活動をイメージすると、コンパクトなよい文書にすることが可能だと、私は思います。)


ところで「過程」は分かったが、その場合「結果」はどうみるのか?

米国の場合は、それを“成果”として扱うということをするところが多いようです。
パフォーマンス管理で、基本給的な部分を、アウトプット管理で成果給的な部分の管理をするというのが、米国では一般的だといえるでしょう。

(ちなみに、米国映画などで「オマエは、クビだ!明日から、くるな!」と、前日に解雇を言い渡すシーンを目にすることがありますが、あれは映画の中のこと。
米国の連邦法では、「能力のないもの」しかクビに出来ません。ああいうシーンは、その前の段階でさんざん注意を受け“イエローカード”が出されたにもかかわらず、対応しなかったことが「前提」となっているのです。

(…そうでもなければ、黙っている人達ではありません。(笑))
米国の成果主義は、案外、秩序正しいのです。

そして、その能力有無の判断基準に使われるのが、米国では「ジョブ・ディスクリプション」です。

もちろん、日本の法律は米国とは違いますが、日本も似たようになってくるのではないかと思います。

営業職などではよくあることですが、ラッキーで作れた売上を本人の実力とするのか、運と扱うのかは、中々整理が難しい…。

とはいっても、属人的キャラのような部分を評価の中でどう扱ったらいいのか…。
現在では、結局、上司の受けの良さ、印象の良さに左右されることになりかねないとなっているところ、案外多くありませんか?
もちろん、それを補うこととして目標管理などを行っているところもあると思います。

ですが、その基準は不安定で、曖昧ではないですか?
透明性のある「評価」となっていますか?
その結果が、意欲喚起につながっていますか?
(…これ、とっても大事なポイントです。)

見てくれのよい売上、短縮された納期、見栄えのよいデザインや企画書…。
どれもこれも、企業にとって目を惹く結果です。
しかし、これらの結果が本当に企業にとって良いものなのかどうかは、そのことへ投資をするとか、活動が一段落した後、評価が終わった後になってからでないと、(ITの登場で)分かりにくくなってきたのです。

「結果良ければ、過程良し」とするのか、
それとも「過程が良いことで、良い結果が生まれる」とするのか…。
このあたりにも、会社の理念とか姿勢が表れてきそうです。

“試行錯誤”という過程は、日常の活動です。
その日常の活動を日本は、以前は職場でのやりとりを通じて管理していました。ところが、職場のIT化と共にその管理が非常に難しくなってきました。

そのアウトプットを生み出す過程に生じやすい、「手抜き」を防ぐことが可能になるのです。

(あ、もちろん、これは“試行錯誤”という活動がきちんと把握できた上での文書ーになっていればのことですが。…(^^ゞ   )

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□「ペイ・フォー・パフォーマンス」と、勤務時間との関係で2つの勤務体系の提示ということ

今回の産業競争力会議の提言では、AタイプとBタイプという2つの制度イメージを提言しています。

この違いは、働くという活動に伴う結果が時間の経過に依存するかどうかの程度によって分けている、と眺めると分かりやすいと思います。

その説明を、しておきますね。

Aタイプ…
どちらかというと、時間の経過に業務量が依存するような仕事、活動に規則性が大きく、工夫する余地の少ない仕事の場合は、こちらになるでしょう。

たとえば「伝票入力」のようなお仕事の場合は、だいたい時間と業務量が連動していますね。テレフォン・アポインターなども、だいたい決まっていますよね。
ですから、基本、こちらに入る確率が高いと思います。

とはいっても、「工夫する余地」がどの程度あるとするかは、会社が決めること。

「いやいや、ケースによっては一件に予想以上の時間が掛かっちゃって」ということも、もちろんあります。
そうかといえば、「伝票入力が、的確なんだよね」とか、「リピーターを取る確率が高いんだよね」というような一人ひとりの業務能力の差というのが、結果的に会社の予定している効率を上回ることもあるのです。

このように、従前の時間管理だけではきちんと評価できなかったことでも評価しようというのなら、パフォーマンスを掴むことを目的としている「ジョブ・ディスクリプション」は非常に有効だと思います。

Bタイプ…
営業マンや設計士、補助職でない研究者とか、デザイナー等々、つまりヒラメキが、アウトプットの成果を左右するような仕事はこちらに入るとしています。

(というような仕事を現在は想定していますが、たぶん現在のデスクワーカーのかなりの部分はこちらに入っているのでは…と、私は思います。
なぜなら、パソコンでの業務中は、誰に指示されるでも無く、殆ど一人でキーを叩いているからです。)

この場合は、現在日本では完全年俸、成果型賃金を想定していますが、もともと「ジョブ・ディスクリプション」という文書は、雇用関係の前提にあるものです。

ですから、その書面の内容ができないということは基本“ない”のです。
ちなみに、米国では「ジョブ・ディスクリプション」が基本給的部分の保護をする役目となっています。

以上は、「ジョブ・ディスクリプション」という文書を雇用のインフラとして備える必要性を研究してきた所から眺めた、産業競争力会議の提言の私の解釈です。

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もちろん、日本の雇用関係には全くそういうものが「ない」ところで生まれているわけですから、終身雇用も溶解し、年金支給だってどうなるか不透明という中では、せめて暮らしを支える雇用の部分だけは触らせたくないと思うのは、当然だと私は思います。

新たにそういうものを「持たせる」ことは、強者の論理だと映るのは無理はないと思います。

ですが、もっと懸念すべきことはITが職場を奪うという現実です。

JRのSuicaが登場したのは、2001年でした。
この登場で、駅の改札業務はガラッと一変。
入鋏業務も、精算業務も、人からITへ移行しました。
駅員さんの仕事がITへ移ったと同時に、駅員さんの数も激減しました。

銀行のATMにいたっては、1970年頃の登場です。
それまで銀行の窓口業務は、若い女性の一種の憧れの仕事でもありましたが、ATMの登場で銀行そのものの支店の統廃合が進み、窓口業務にとどまらず、銀行で働く人が大量に関連会社に転職させられるという現象へと続きました。

それでも、雇用の機会が国内の、それも「人」にある間はよいでしょう。

今年の1月には「50%が失業? ITの進化で20年後に消えてしまう職業一覧」という記事が、
また3月にBLOGOSに「本当に人間に残る仕事は何だろう/アルゴリズムが全てを呑み込む未来」
という記事がありました。

そのように、今や自分の雇用の機会は、国内においては「IT」との、「人」との関係でいえば海外との労賃競争に晒されているのです。

ところで、そういうものに晒された一人ひとりの個人の暮らしといえば、スマホや電子マネーなどITというものの恩恵を十分受け、また100円ショップなど海外の安価な労賃で製造された商品よる幅広い商品選択の機会を、当たり前のように日々、得ています。

一方で私達の雇用を脅かす存在でもありながら、他方でそれのもたらす恩恵を心地よく受け入れているという、ジレンマに晒されているのが、今日の雇用の姿です。

今回の産業競争力会議の提言は経営者の側から出てきていますから、どうしても防戦を張りたくなるのは分かります。

ですが私としては、ITという技術、グローバル化という波、そういう環境から自分の雇用を守るために、「ジョブ・ディスクリプション」という文書を組織が備えるということに、前向きになってもらいたいと思います。 (G)

参照: 必要な仕事内容の「文書化」とその課題 — 玄間 千映子

玄間 千映子(げんま ちえこ)
(株)アルティスタ人材開発研究所 代表