日本の自衛権は「何を守るのか」?

2014年06月04日 19:07

国の自衛権やその行使を論ずる時に「何を守るのか」と言う目的も決めずに「国家」と言う言葉が一人歩きする事は極めて危険である。

中華人民共和国やソビエト社会主義共和国連邦も国家なら、ナチスドイツ、大日本帝国や英米両国も国家であるように、国家とは単なる「容器」の名称であって、重要なのはその中身である。


多くの尊い血を流して近代的立憲主義を勝ち取った欧米民主国家では、国家の自衛権とは「国民とその子孫に自由のもたらす恵沢を確保する事」を目的として制定された「憲法を守る権利」だと言う国民的合意が出来ている。

それに比べ、自由の為に自ら血を流した経験がなく、主君や国家の命令により「国家の為に」血を流して来た日本では、国家と憲法目的を混同するなど、自衛権を行使して「何を守るのか」についての国民的合意すら出来ていない現状である。

この背景を念頭に、これまでの「自衛権論争」を俯瞰すると、肝心の「何を守るのか」と言う本質論が疎かになり、「改憲か解釈変更か」と言う手続き論に終始して来た事実が見えて来る。

その手続き論も、従来の内閣法制局見解とは異なり日本国憲法は集団的自衛権の行使を禁ずるものではないと言う見解を持つ小松法制局長官が辞任すると、論議の中心はいつの間にか集団的自衛権の行使に移ってしまった。

しかも、大多数の「改憲派」が、集団的自衛権を行使してでも国家(憲法)を守るべきだと主張し、現行憲法の死守を唱える護憲派の多くが、日本国(即ち現行憲法)の存続を脅かす危機に瀕しても「国民の血」を流す恐れのある集団的自衛権を行使してまで守る必要はないと主張するに至っては、憲法論争と言うより憲法を出汁(だし)にした政見発表会に近い低レベルの論議と断じても良かろう。

護憲派の多くの人が、昭和12年の盧溝橋事件に始まり、昭和20年の終戦までの8年間に実に300万人以上のの戦没者を出し、660万人を超える同胞が海外から着の身着のままの状態で引揚げさせられた悲惨さを見聞きして衝撃を覚え、現憲法が「永久に平和な日本」を保証していると短絡的な結論を出す傾向にあるのも問題である。

「相手のない喧嘩はできぬ」とは個人の間だけに通じる言葉で、国家間の現実は厳しい事は、真因不明の国際紛争の続発でも判る通りである。

「国家の為」と言う名目で多数の国民が犠牲になった歴史を持つ日本だからこそ、先ず「自衛権で何を守るのか?」と言う原点に戻って論議をするべきである。

一方、集団的自衛権行使に積極的な保守派の多くが、戦前と同じ意味の「国家」の防衛を主張する事にも恐怖を覚える。

独立国が自衛権を持つ事は個別であれ集団であれ国際的に確認されて久しい概念で、今更その可否を論じても始まらないが、原点に戻って国民的論議を重ねた結果、日本には自衛権を行使してまで守るべき物はないと言う結論に達したとすれば、その結論を受け入れる事も、近代的立憲制度の特質であり、国民に託された責任は重い。

もう一つ日本の憲法論議で目立つ事は、一貫性に欠ける現憲法の欠点を悪用して、全体として捕らえられるべき憲法を自分の好みに従い「つまみ食い解釈」をする悪い癖である。

例えば:

日本では憲法9条と自衛隊の矛盾は限りなく論じられて来たが、憲法前文と9条の齟齬について論じられた例を知らない。

前文には「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と、正義に対する侵害は、自国、他国を問わず高い国際倫理を行使して排除する事を日本国民に求め、普遍的な政治道徳に従う事が自国の主権を維持するに必要な行為であるとまで断じている。

この際、「普遍的な政治道徳」の尊重を求める憲法前文と第9条の戦争放棄規定のどちらを優先するかも真剣に論議すべきではなかろうか?

護憲派の論客である内田樹教授は、その著書の中で「日本人は、国家的危機に直面した時に『私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか』という問いに立ち帰りません。私たちの国は理念に基づいて作られたものではないからです。私たちには帰るべき初期設定がないのです。」と記し,更に「国とは何か、国民とは何かについて最終的に答を出すのは、私たち一人一人の個人の資格においてであると言う考え方が、私たちの中には定着していないからです。」と指摘されている。

確かに米国では、内田先生の述べられたように建国の原点に戻って統治の不正を断罪して改善した実例が何回も起きている。

第二次世界大戦や朝鮮戦争の頃までは、自由の為の戦争だと一致して戦争を支持していた米国世論も,ベトナム戦争以降は「自由を守る」と言う名目で「政権や利権を守る戦争」に堕落したと言う世論の批判が高まり、米国が参加した国際武力紛争で、世論が一致して支持した紛争は皆無である。

ベトナム戦争での政府の不正を裏つける秘密資料を暴露したエルズバーグ博士の勇敢な行動(ペンタゴンペーパー事件)は、行政府の透明性を急速に高める新たな法制度を呼ぶと同時に、憲法上の緊急措置によってさえ解決出来ない国家の緊急事態が発生した場合に如何に対処すべきかについて、全国民的な論議を呼んだ。

その成果の一つが、米国大統領の戦争に関する権限を定めた「戦争権限法」の大幅改正で、大統領に開戦前の議会への説明、開戦後後48時間以内の議会への報告を義務つけ、60日以内に議会から宣戦布告承認を得られなかった場合は、議会はその戦争行為に1ドルたりとも予算を割り当てない等の大統領の独走を阻む法案が施行された。

その後も9.11でもわかるような国家的危機の変化に対応して米国では法制度を整備し続けている。

日本では護憲派の権力側への不信が強すぎるため、肝心の権力側の行き過ぎを抑える制度の論議すらされていない。

ペンタゴンペーパー事件当時の国民のニクソン不信は、日本の護憲派の改憲派に対する不信以上のものがあったが、国民が信用できない人物が権力機構のトップに就いた場合でも、国家が危機を克服できる制度的担保として、大統領の「戦争権限法」の大幅改正などの具体的手段を施している。

日本の自衛権行使論議も、「何を守るのか?」の原点に戻って国民的な合意を見出した上で、行政に不安な点は制度的な歯止めを設けるなどの権力への牽制と国家的な危機の回避が両立する制度の実現など、建設的な論議を深めて欲しいものである。

2014年6月4日
北村 隆司

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