「婚活」ブームの危険な正体 --- 長岡 享

アゴラ

1.「婚活」への誤解?

今日、マスメディアをとおして広く知られるようになった「婚活」とは「結婚活動」の略称として、2007年(平成19年)に『AERA』誌の取材を受けた家族社会学者・山田昌弘氏(以下、人物への敬称略)によってネーミングされたのを初出とする(注1)。これは、あたかも自然発生的に広まったとみられているようだが、はたしてそうか。

まず第一にこの記事を掲載した『AERA』誌では、それ以前から執拗にといっていいほど継続的に、結婚の大変さ、結婚と恋愛はイコールではないといった趣旨の企画が取り上げられている(注2)。「婚活」ブームもその流れに位置づけられる。また、マスコミ、新聞、テレビ、ラジオなどの取材はすべて「30代の未婚者」であったように(注3)、ある一定の価値観をもった集団によって取り上げられブーム化していったというのが真相だろう。


山田を取材した白河桃子本人があかしているように、「婚活」の狙いとは「自然な出会いによる結婚=実は仕組まれたシステムであったことを伝え」ることであり、「男が働き、女性は家事育児がメイン」という「昭和的価値観」から脱却させることであり、未婚者の意識変換にあわせて制度を作り直させることにある(注4)。「仕組まれたシステム」といい「昭和的結婚観」「未婚者の意識変換」といい、多分に侮蔑的かつ市民運動的な表現をみればわかるように、もともと「婚活」には当初から伝統的家族観をターゲットにし、貶める方向性をもって取り上げられたといえる。

2.「恋愛至上主義」の敗北

そもそも、戦後日本の「昭和」における結婚意識の変遷は、「男女平等」を錦の御旗にして、家風や家憲といった私権にまで土足で介入するという”伝統破壊”の歴史そのものだった。オーストリア生まれの”ロシア人”ベアテ・シロタが深く関与した日本国憲法第24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」等の条文によって、「取り決め婚」(許婚)や「お見合い結婚」といった慣習を否定し、あたかも不純なものであるかのごとく見下す「恋愛結婚至上主義」を生み出した(注5)。

両親のすすめで結婚し、子供までいたベアテ・シロタの母親は、夫子どもを捨ててピアニストのレオ・シロタのもとへ走った。その「進歩的な結婚」をベアテ・シロタは肯定し、目指すべき結婚像とした。恋愛結婚は日本における主流となり、昔ながらのお見合い結婚は衰退していった。だから「昭和的」というのであれば、ベアテ・シロタによってもたらされた恋愛結婚至上主義/愛欲至上主義こそが「昭和的」であり、「仕組まれたシステム」とは、慣習による結婚を一切排除した「恋愛結婚至上主義」のほうだったといえよう。

ところで、「恋愛結婚至上主義」によって日本人女性はかえって結婚しづらくなってしまった(注6)。伝統を否定することによって結婚へのアプローチの幅を狭めてしまったからだ。

何のことはない、恋愛結婚とは、伝統的な結婚形態という”宿主”にパラサイトしていたからこそ成り立ちえたということであり、伝統的結婚が存在しなければ自己溶解してしまう脆弱なイズムであったのだ。恋愛だけが結婚への道ではないということを、当の恋愛結婚礼賛者たちが認めざるを得なくなったというのが「婚活」の実態であり、憲法の恋愛結婚至上主義をもはや維持できなくなったがゆえに起きた現象こそ、「婚活」ブームの正体にほかならない。

「恋愛と婚活は相いれないものではない」とし、婚活が恋愛(結婚)を否定するものではないと逃げを打っているが、それならば取り決め婚やお見合い結婚といった慣習を否定する必要もなかったのであり、恋愛結婚至上主義とその思想がそもそもの誤りだったと素直に認めるべきであろう。伝統的な結婚観を「昭和的」としているところに、歴史的な事実に反する明確なミスリードがある。白河のいう「昭和的」は「伝統」とイコールではない。

3. 婚活女子は「昭和的結婚観」の持ち主?

では、「男は仕事、女は家事」を「昭和的価値観」であるとしているのはどうであろうか。当然ではあるが、男女が結婚し、女性が妊娠すれば、女性は仕事を一時的であれやめなければならない。また、出産後も育児が控えている以上、男は仕事、女は家事になるのは当然だ。

育児期を終えても専業主婦にとどまる人もいれば、男性がそれを強く願うこともあろう。育児期を終了して再び就業する女性もいるかもしれないし、それを願う男性がいても、それでいいのである。その関係を調整するのは夫婦間あるいは家族間の中の話であるからだ。働く必要のない人が働くこともないし、家計が苦しかったり、より安定した家庭をめざして働くこともあろう。家事を手伝う夫がいてもいいし、手伝わない男がいてもいい。

それを一律に「家事をしない夫はけしからん」「専業主婦は働いていないからとんでもない」などというのは不当である(注7)。パートナーとの家族経営のありかたは、家族の中で取り決めればよいのであって、法律を盾に一律に思想統制するのは間違っている。

実際、「男女共同参画社会基本法」の「共同参画」とは大方の想像とは全く反し、「男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできるだけ中立なものとする」として「中立」判断という名で公権力が介入し、性差にもとづく役割分担の解体を当初から織り込んでいる。「中立」とは聞こえはいいが、多様性を許さない「画一的」な全体主義社会を成立させる原動力となっている(注2)。

「婚活」ブームはそのキャンペーンの一環であり、オルガノンとして機能していることを見逃してはならない。「専業主婦」を貶め、返す刀で男性の価値観の変容を迫る、これが「婚活」ブームのもうひとつのねらいである。

マスコミでフレームアップされている「婚活」女子の専業主婦礼賛もまた、伝統的な専業主婦とは似ても似つかない。女性が男性に経済的安定を求めるのは至極当然としても、それが男性総人口の数パーセントの“玉の輿”に乗ることを煽っているのは、大多数を占める女性への冒涜ではないのか。

楽をしたいがために専業主婦になろうとする女性はそもそも「女は家事」を体現しようなどと考えていないから伝統的な家族観の持ち主ではない。男性についても、経済的な事情から妻の援助を借りることに否定的ではなく、そもそも援助以上の労働を女性に強いることを躊躇しているのであるから、否定される考えではなく、むしろ賞賛される考え方ではないか。

そうした彼/彼女らが報われるように、若年層に安定した雇用環境を与える施策が求められているのであって、価値観の変容が焦点ではない。これもまたミスリードだ。なお、マスコミのデフォルメを無批判に信じ、つくられた女性像に辟易してアプローチ自体をあきらめてしまっている男性については、そのような女性は少数であることを、女性の名誉のために付言しておきたい。マスコミに踊らされて多数派を形成しないことを願うばかりだ。

4. 最後に

結婚活動にも、男女の性差にもとづく理にかなったアプローチが大事であり、かりそめにもマスコミ由来の「肉食系」「狩猟系」結婚活動に陥らないことである(注8)。女性一般における上昇婚傾向(注8)を逆手に取り、経済力に男性の価値を集約させることで男女の結婚飢餓感を煽るあたり、「婚活」を深彫りすればするほど一般男女を愚弄しているさまが見て取れる。

男性を経済的指標に還元して商品化する「婚活」ブームは、そのいびつさから早晩ブームを終える。そのときに、結婚自体に失望することはあってはならない。そのようなことがあれば「婚活」ブームの仕掛け人たちの思う壺であろう。

「覆水盆に返らず」ということわざがある。結婚しても本ばかり読んでいた─おそらく将来の仕官に備えて学業に打ち込んでいたのだろう─太公望に愛想をつかして離縁していった女性が、のちに周から斉に封ぜられ出世した太公望に復縁を申し出たものの、一度こぼれた器の水が再び元のまま盆の上には戻らない道理を示されて、復縁をしりぞけられた話だ(『拾遺記』)。

地位といい名誉といい経済事情といい、未来永劫にわたって安定的なものなど何もない。結婚当時は安定していた環境が、結婚後損なわれることもある。だからこそ「結婚」と子孫繁栄を通じて確かなものを残そうとしてきたのが人類の歴史であり、歴史ある日本の歴史だったはずだ。「覆水不返」のように、一見うだつのあがらないような男性が、のちに地位や名誉を得る場合もあろう。

だが、賢明な日本人女性は、常なき世にあって時には夫を支え、時には主体的に家計を切り盛りし、家族の中核を担ってきた。大多数の婚活女性もまたマスコミがフレームアップする打算的な腐女子などではなく、伝統的な価値観につらなる日本女性のDNAを受け継いでいるものと私は信じている。


1. 『AERA』2007年11月5日号、朝日新聞出版。なお、当時の取材者・白河桃子氏との間に共著がある(山田昌弘・白河桃子『「婚活」の時代』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2008年)。

2. たとえば金子勇『少子化する高齢社会』日本放送出版協会、2006年、pp.119-121。なお金子は、男女共同参画社会基本法はジェンダーにとらわれるあまり、ジェネレーション(世代)という視点を欠いていることを批判しているのは傾聴に値する(前掲pp.47-69)。男女の断絶は時代をへて世代の断絶へも結びつくから、彼らは社会の解体と消滅をゴールにしている。

3. 山田昌弘編著『「婚活」現象の社会学』東洋経済新報社、2010年、p.168。

4. 山田昌弘上掲書、pp.162-3。なお白河は、バラエティー番組でのお笑い芸人の替え歌が『「婚活」時代』の中のフレーズ(該当箇所は28ページ)であるとしているが、その「婚活バラエティ」番組は2007年12月31日放送、『「婚活」の時代』は2008年3月1日の出版。番組の収録日や出版日が前後する事情を考慮に入れても、「年収600万円以上の男は全体の3.5パーセント」というフレーズが『「婚活」時代』のものとするのは時系列と一致していない。

5. 「一九四六年に日本国憲法の草案作成に関わったことが、私が西洋の概念(アメリカの概念とは限りません)を日本に紹介した初めての機会でした。私は多くの憲法を読み、新憲法に適正な人権を入れることがいかに重要かを認識するようになりました」(太字は引用者、ナスリーン・アジミ、ミッシェル・ワッセルマン『ベアテ・シロタと日本国憲法』岩波書店、2014年、p.6)とあるように、ベアテ・シロタが関与した部分に英米系の憲法思想はない。ベアテ・シロタの思想は社会主義であり、「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」「ソビエトの憲法は・・・・・・社会主義が目指すあらゆる理想が組み込まれていた・・・・・・要点をメモするつもりが、全文を書いてしまう。なんだか一文字もゆるがせにできない感じが、行間から伝わってくるのだ」(『1945年のクリスマス』、pp.150-152、点線は中略をあらわす)とあるように、マルクス・レーニン主義への傾倒ぶりをうかがわせる。

なお、同じく参考にしたとされるワイマール憲法も、ソビエト憲法の影響を受けて1919年に成立しているから、社会主義思想に汚染された日本国憲法と、憲法の遵守を通じて日本国民を洗脳し続けて今日に至っている日本は、まがうことなき社会主義国家である。

6. この点、本山勝寛「少子化の原因は恋愛至上主義ではなかろうか」の指摘は正しい。ただし、恋愛を結婚の延長線上に置く「恋愛至上主義」から脱却して再び恋愛と結婚を結びつけず反対に、恋愛結婚を「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と名付けて否定し、恋愛と結婚とを別にすることを勧奨するばかりか、結婚をも相対化する言論もすでに進んでいる(たとえば小倉千加子『結婚の条件』朝日新聞社、2003年、など)ことへの目配りは必要だったかもしれない。ともあれ、こうした思想の持ち主たちが主導する「少子化対策」ほどいかがわしいものはなく、低出生率が改善するはずがないことに贅言は不要だろう。

なお、恋愛至上主義が結婚を枯渇させることは当初予期しなかった結果などではなく、当初から織り込まれていた可能性がある。というのも、ベアテ・シロタは「ミルズ大学でのフェミニスト的教育に影響されて、女性の権利条項を起草するための強い動機になった」(「インタビュー 私はこうして女性の権利条項を起草した」『世界』1993年6月号、岩波書店、引用は井上ひさし・樋口陽一編『『世界』憲法論文選』岩波書店、2006年、p.45)と述べているからである(なお、ミルズ大学はMilles collage)。スパイ疑惑もあるこの女性の経歴と思想については、今後批判的に解明されることとなろう。

7. 上掲「インタビュー 私はこうして女性の権利条項を起草した」p.39、には「日本女性は家庭では力を持っていること。父親はあまり家にいなくて、子供の教育は母親の役割で、教育だけでなく、子供の文化的な活動に関することはすべて女性によって決められ取り計られ〔原文のママ〕ていました」とあるように、日本の専業主婦はけっしてフリーライダーではなく、家庭のかなめであり、地域や学校や親族縁者などの重要な結紮点であった。

8. 拙稿「結婚を「しない女性」と「できない男性」」※未公表

長岡 享
研究者
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