集団的自衛権容認の次に来るもの

松本 徹三

「集団自衛権」の問題が世論を大きく二つに割りつつある。安倍首相の支持率が落ちてきているのは、この問題を懸念している人たちがけっこう多いからだと考えて良いだろう。

アベノミクスの行く末に懸念を持ち、「成長戦略推進(イコール「既得権への切り込み」だと私は思っているが)」の「本気度」を疑っている人たちも多いが、これに起因する危機感は一般大衆の間には未だ浸透していない。また、世界を飛び回って陣頭指揮している安倍首相の姿は、概ね好意的に受け止められていると思う。従って、支持率低下の原因は、やはり「秘密保護法」と「集団的自衛権」にあると考えるべきだ。

それにしても、ここ数十年で日本は変わった。これが数十年前だったら、反撥はこんなものではなかっただろう。明確に倒閣を狙った大規模な街頭デモが組織されていたに違いない。


この変化をもたらしたのは、一つは「経済的な閉塞感」であり、もう一つは「中国の覇権志向」であろう。特に習近平に「太平洋は十分に広いから、米中の二大国で分けてもいいではないか」とまで言われて、平気でいられる日本人はあまりいないだろう。

とは言え、やはりここまで来ると、国民の間に「かつての日本への回帰」という「悪夢」が意識されるようになるのも妨げられない。安倍首相自身を含む一部の政治家や、ネトウヨと呼ばれる人たちの無神経な言動が、これを助長しているのは残念だ。このような重要問題は、もっと真面目に、丁寧に議論すべきだ。

国家の利害がぶつかり合う現在の国際社会の中で、日本人と安全と利益を守る為には、ある程度の軍事的なプレゼンスを持つ事は残念ながら不可欠だ。しかし、その事とかつての日本の帝国主義(対外拡大主義)が結び付けられるような事は極力避けていかねばならない。それなのに、そのような当然の配慮をする人が稀なのは、本当に困った事だと言わざるを得ない。

自国の安全保障の為に必要な備えをする事を「戦争をしたがっている」と決め付けるような人たちの「論理性の欠如」は、私には度し難い。また、最悪事態に対する処方箋も持たないままに、十年一日の如く「平和憲法を守れ」と呼号してきた人たちも、私には極めて無責任な人たちとしか思えない。

しかし、これと対峙する考えを持つ人たちが、冷静且つ丁寧な議論をしてこなかった事に、私はもっと大きな不満を持っている。顕在化した中国の覇権主義を意識して、最悪時の備えをする事を主張する人(私もその一人だが)は、同時に中国に敬意を持って接し、友好の糸口を掴む事にも最大限の努力すべきなのに、平気で侮蔑的な言葉を吐く人たちがいる。誰とは言わないが、まるで子供としか言いようがない。

日本人に限らず、人間は元来「両極に分かれてお互いに相手を罵倒し合う事が好きな動物」のようで、「良識に基づいた是々非々の議論」には馴染めないのだろうが、これはとても非生産的で、悲しい現実だ。

私は憲法改正論者だが、「今の憲法は押し付けられた憲法だ」等と言い募る人たちには殆ど我慢がならない。押し付けるも何も、無条件降伏をした当時の日本が占領軍の決めた法秩序に従わざるを得ないのは当然の事であり、一方、サンフランシスコ平和条約締結後の日本は、自らの憲法を制定する力を得たのであるから、何時でも憲法改正が出来たのである。占領軍が作った憲法を長年守ってきたのは日本国民自身の意志であって、誰も押し付けてなんかいない。

もちろん、改正を阻止してきたのは、国民の過半数の意志ではなく、三分の一強の意志でしかないというのはその通りだ。しかし、三分の一は十分大きな数字で、改正の壁として適切なレベルでないとは言いきれない。

また、未だ共産主義(プロレタリアート独裁)体制に対する幻想が崩れ去っていなかった冷戦下の当時の日本では、大都市の住民や若者たちは概ね「非武装中立派」で、西側陣営への明確なコミットメントを推進してきた自民党の支持基盤は保守的な地方都市や農漁村にあったのだから、この三分の一の壁を突き破るのが難しかったのも事実だ。

しかし、今の時点ではどうなのだろうか? 今回の慌ただしい集団自衛権の容認や秘密保護法の成立には、多分に緊急避難的なところが見て取れる。だから、私は「やむを得なかった」と考えてこれを支持しているが、決して健全な姿ではなかったと思う。「解釈に全てを委ねなければならない曖昧さ」の残存は、「濫用」のリスクを認める事に通じる。当面はその「濫用」を防ぐ為の歯止めに十分配慮した形でこれを運用する一方で、早急に国民的な議論を徹底し、国民の三分の二の支持を受けるに足る「新憲法」の起草に取りかかるべきだ。

ちなみに、何故私が今の時点で「集団的自衛権」が緊急に必要だと考えているかと言えば、「米国が諸般の事情からアジアでのプレゼンスを後退させる方向に動き、結果として極東と東南アジアにおける中国の支配力が決定的に高まる」事に大きな懸念を持っているからだ。日本は何時までも自国の安全を他国に委ねて、「金は出すが血は流さない」という「手前勝手な考え」を押し通す訳には行かず、米国のアジアにおけるプレゼンスをつなぎ止めるには、双務契約によって米国の負担を軽減するしかないと考える。

人によっては、それ以上に「朝鮮半島有事の場合の韓米日の軍事的連携の必要性」を強調する向きもあるが、私はその考えには組さない。事ある毎に国際関係の常識に反する侮日的な言動を国内外で繰り返し、前線で両国のPKO部隊が銃弾の融通を行う事までをも問題視するような現在の韓国の為に、日本人が血を流す事はあり得ない。そんな事にまで日本国民のコンセンサスを得ようとしても、それはとても無理だろう。

極端な推測と思う人も多いかもしれないが、私は「中国の後見と協力」の下に、北朝鮮国内の混乱に乗じて韓国が北朝鮮を併合する可能性は、今や相当大きくなったと見ている。その結果として、韓国は、膨大な経済的負担を一国で背負い、更にその結果として「中国への経済的な依存」にも歯止めがかからなくなって、やがては昔通りの「中国の実質的な属国」と化していく事を甘受せねばならぬ事になろうが、この流れは最早止められないと私には思えてならない(米国は当初は懸念するかもしれないが、やがては経済的な負担が軽減するのを歓迎することになるだろう)。

それは韓国民にとっては決して良い事ではないと思うが、戦略的にも経済的にも全く意味をなさない「反日」をここまで執拗に繰り返し、普通の日本人に「嫌韓(というか、韓国にはこれ以上関わりたくないという気持)」を定着させてしまった事の帰結として、やむを得ない事だと思う。本来なら、韓国は日本と中国を天秤にかけて、その狭間の中でうまく生きていく事を考えるべきだったのだが、「感情」や「国内での安易な人気取り」を優先させて、中国依存に大きく舵を切ってしまった。

その事は、一方では、今後の日本の安全保障は「韓国との提携」抜きで考えねばならぬ事を意味するが、我々に隣人の性格を変えさせる事が出来ない以上、それも「やむを得ない事」と割り切るべきだ。

さて、話が少し横道に外れたが、これからの日本の「憲法改正議論」の中での最大のポイントは、もちろん、「自衛の為の軍隊の保有と交戦権」を明確にして、憲法という紙の上だけの「非現実的な一国平和主義」に終止符を打ち、日本を法的な整合性を持った「普通の国」にする事だ。

多くの人たちが何度も繰り返して言っている事だが、軍隊を持つのは、積極的に戦争をする為では勿論ない。最悪時に備えるのと、その備えがある事を示すことによって、他国の軽率な行動を牽制するためである。

軍備を持つ事は、「血を流す覚悟をする」事と同義だが、その血は「後でもっと多くの血を流すのを防ぐ」ための「尊い犠牲の血」に他ならない。一方で「なまじ軍隊なんかを持っていると、つい使いたくなってしまうものだ」と警告する人たちもいるが、この「国民の重大な覚悟」が、そんな軽忽な為政者に間違っても利用される事がないように、国民自身の手で十分に監視されるべきは当然だし、そのための合理的なメカニズムもあらかじめ決めておくべきだ。

ところで、現在の「平和憲法」を世界の文化遺産にするという動きがある事は承知しているが、これはブラックジョークに類する事だと私は思っている。世界の現実から目を外らし、「自国民が他国の理不尽な支配にどうしても忍従出来なくなる時点(その時には既に手遅れなのだが)までは『無防備』に徹する」事を是とする「不思議な体制」を明記した憲法、それも、元を質せば自国が外国軍に占領されていた時に、少数の外国人グループが付け焼き刃で起草した憲法を、長期間にわたり健気にも頑に守り通した「不思議な独立国」が存在した事が、「人類の文化遺産」として残されるとしたら、これはブラックジョーク以外の何者だろうか?

さて、これから起草すべき新憲法の内容についてここで更に語るなら、現行の第9条に代わる「止むを得ない場合の交戦権」や、「その迅速な発動を可能とする軍隊の存在」に関する規定は、「実務的な問題」であって、「理想」を語るものではない事を、先ずは指摘しておきたい。しかし、一国の憲法である限りは、その国が「理想」として追求する事が「前文」で格調高く謳い上げられる事が望ましい。いや、「なくてはならない事」だと言ってさえもよいだろう。

この「前文」を起草すべき「現在を生きる日本人」は、ここで、先ず「軍事力によって海外での経済的支配力を支えていこうとしたかつての大日本帝国の姿勢」を全面的に否定し、それがもたらした他国民の苦痛に対する謝罪も潔く明記した上で、「これからの日本は世界の恒久平和実現の為にあらゆる努力を惜しまない」という強い決意を表明するべきだ。これこそが、「まやかし」ではない真の「平和憲法」というものだ。

「理想」と「現実」の間のギャップは常に受け入れざるを得ないが、それは「理想」を忘れる事ではない。どんな時でも、「理想」の実現の為に着実に一歩一歩進む事こそが、我々日本人がこれから誇りを持って取り組んでいくべき事だ。