あなたはクマラスワミ報告書の内容を信じることができますか?

2014年09月29日 10:29

1996年、国連人権委員会の特別報告官ラディカ・クマラスワミ女史がまとめ上げ、同委員会に提出されたのが、「女性に対する暴力」付属文書の「戦時における軍の性奴隷制問題に関して、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本への訪問調査に基づく報告書」である。これがわが国において、いわゆる“クマラスワミ報告書”と呼ばれるものだが、現在、ネット上でアジア女性基金による日本語版も公開され、読むことができる。


クマラスワミ氏が会ったのは「3カ国16人の証言者」である。証言した元慰安婦は朝鮮人と韓国人であり、一人だけが在日朝鮮人である(つまり全員がKoreanである)。女史によると、「こうした証言をすべて聞くことで当時の状況を想像できるようになった」のであり、「軍性奴隷制が日本帝国陸軍の指導部により、また指導部の承知の上で、組織的かつ強制的に行われたと信じるに至った」という。つまり、この報告書の趣旨・結論・信憑性などを一手に担保しているが、彼女たちの「証言」なのである。

それではその証言とはどのようなものか。証言の項目の冒頭で紹介されているのが、チョン・オクスン(1995年7月当時74歳)のそれであり、以下に引用する。

「私は1920年12月28日、朝鮮半島の北部、咸鏡南道のプンサン郡ファバル村で生まれました。6月のある日、当時13歳だった私は畑で働く両親のために昼食を用意するため、村の井戸に水をくみに行きました。そこで日本人の守備兵の一人に襲われ、連れて行かれたのです。両親は娘に何が起きたのか知らずじまいでした。トラックで警察署に連れていかれ、そこで数人の警官にレイプされました。私が泣き叫ぶと、ソックスを口に突っ込まれて、レイプが続きました。警察署の所長(ママ)は私が泣き叫ぶので、左目を殴りつけました。それ以来、私は左目が見えません。」
「10日ほどして、恵山市の日本陸軍の守備隊に連れて行かれました。そこには私のような朝鮮人の女の子が400人くらいいて、毎日、5000人を超える日本兵のため性奴隷として働かされました。一日に40人も相手にしたのです。抗議するとその度に殴られたりぼろ切れを口に突っ込まれたりしました。私がいいなりになるまで局部にマッチをあてた兵隊もいます。私の局部からは血が流れ出ました。」
「私たちと一緒にいた朝鮮人の少女の一人が、なぜ一日に40人も相手にしなければならないのかと聞いたことがあります。彼女を懲らしめるために、中隊長ヤマモトは剣で打てと命じました。私たちの目の前で彼女を裸にして手足を縛り、釘の出た板の上にころがし、釘が彼女の血や肉片でおおわれるまでやめませんでした。最後に、彼女の首を切り落としました。もう一人の日本人ヤマモトは私たちに向かって、『お前らを全員殺すのなんかわけはない。犬を殺すより簡単だ』と言いました。『朝鮮人の女たちが泣いているのは食べるものがないからだ。この人間の肉を煮て食べさせてやれ』とも言いました」
「ある朝鮮人の少女はあまりに何度もレイプされたため性病にかかり、その結果、50人以上の日本兵が感染しました。性病が広がるのを止め、少女を『殺菌消毒』するため、彼女の局部に熱した鉄の棒を突っ込みました。」
「その守備隊にいた少女の半数以上が殺されたと思います。私は二度逃げ出そうとしましたが、二度とも仲間とともに数日後に捕まりました。私たちはさらにひどい拷問を受け、私は頭を何度も殴られ、今もその傷が残っています。私の唇の内側や胸、腹、身体に入れ墨もしました。私は気を失いました。目が覚めると山の斜面にいたのです。たぶん死人として放り出されたのでしょう。私と一緒にいた少女のうち、生き残ったのは私とク・ハエだけです。山中に住んでいた50歳の男性が私たちを見つけて着るものと食べ物をくれました。朝鮮へ帰る手助けもしてくれました。私は傷つき石女となって、口もろくにきけない身体で帰ったのです。日本人のための性奴隷として5年間働き18歳になっていました。」

当時の朝鮮と慰安婦の状況は?
1934年といえばまだ日中戦争も始まっていない時期であり、しかも恵山市といえば朝鮮内である。だが、チョン・オクスンは、日本兵にいきなり誘拐されたと訴える。そしていったん警察署に連行されてレイプされた後、日本軍の基地に移送された。そこでは朝鮮の少女に対するレイプ・拷問・虐殺が日常的に行われていた、と証言する。

だが、現在の韓国朝鮮の国定史観が言うように、当時の朝鮮は「軍事強占下」にあり、日本の軍や警察が民衆に対して暴虐の限りを尽くしていたのであろうか。アメリカ人が撮影した以下のフィルムは、当時の実際の様子を知る上で一つの判断材料になると思う。

しかも、ここで詳しく紹介するスペースはないが、今では当時の朝鮮の様子や人々の暮らしぶりを伝える写真等が大量に出回っている(付記参照)。

チョン・オクスンは、上のような、まだ戦争が始まってもいない頃の朝鮮内で、残酷な「性奴隷制度」が運営されており、自分はその被害者だと証言するが、以下の「東亜日報」(1933年6月30日付)が伝えるように、実際には少女が誘拐されようものならニュース沙汰・警察沙汰になっていたようだ(参考サイト「韓国朝鮮と日本」)。
慰安婦・当時の誘拐記事

しかも、少女400人ほどが一人一日に40人からレイプされたというが、のべにすると1万6千人である。守備隊の日本兵は5千人超だそうだから、兵士たちは日に3回も慰安所に通っていたのだろうか。実際には、当時の軍隊内でどのように慰安所が利用されていたのか。日中戦争が始まった頃であるが、それを示す一資料があるので紹介したい。
(以下「昭和13年(1938年)3月 独立攻城重砲兵第二大隊 常州駐屯間内務規定 第九章慰安所使用規定」『従軍慰安婦関係資料集成』〈龍渓書舎〉256頁より)。
慰安婦・慰安所規定1

慰安婦・慰安所規定2

ご覧のように、この資料では、民族の違いによる賃金差別があったのは事実である(ちなみに「防毒」などと記されているが、要は性病防止のこと)。当時、末端兵士の月給が7~8円という時代であるが、朝鮮人女性の場合、1時間で1・5円の代金であった。将校なら倍額の3円である。業者(女衒)側とは稼ぎを折半するのが慣わしだったという。実際には客一人が1時間も長居することはなく、もっと回転率はよかったらしい。

杜撰で公正を欠くクマラスワミ氏の調査
だが、こういった資料でさえ、見る側が色眼鏡をかけていると、次のように映るらしい。クマラスワミ氏は「総論」において次のように記している。

「(19)日本軍は売春制度の詳細を綿密に記録しているが、これを見るとこの制度は単なるひとつの娯楽施設のように見える。上海や沖縄、その他の日本各地、中国、フィリピンなどの慰安所の規則は今も残っているが、とりわけ衛生、サービス時間、避妊、女性への支払い、アルコールと武器携帯の禁止を詳しく定めている。(20)こうした規則は、戦後まで残された文書のなかでもとくに有罪を示す証拠である。(略)一見規律正しさとか公正な扱いに見える事柄を押しつけようとしたところに、この慣行の残酷さと残虐性が浮き彫りにされている。これは軍性奴隷という制度の途方もない非人道的行為を際立たせるものでしかなく、そこでは大勢の女性が言語に絶する苦痛を伴う状況で、長期にわたって売春を強いられたのである。」(*傍線は記者)

どんな資料であれ悪意に解釈しようとすれば可能である、ということだろう。

さて、ここで引用したのは項目冒頭のチョン・オクスンの証言だけだが、他も似たり寄ったりである。結局、特別報告官たるクマラスワミ氏のしたことといえば、単に元慰安婦を自称する十数名の女性の証言を聞いて、そこから己の偏見と憶測を醸成し、悪の日本を裁いてやろうという安っぽい正義感で報告書にまとめ上げただけだ。

これのどこが“調査”に値するのか。証言について一切の検証をしない、疑うことも許されない、という前提で成り立っている報告書など、信じるに値するどころか、必然的に冤罪を生む構図そのものである。しかも、それに人権活動家や弁護士を自称する者が関わっているのだから、事の異常さは尋常ではない。私の想像と断るが、おそらく、証言に対して第三者が簡単な事実確認の質問をすることが許されるだけで、証言者の記憶違い、意図的な嘘や誇張、内容の矛盾などがその場で明らかになったに違いない。偽証や誣告を予防するわずかなプロセスさえ惜しまなければ、この報告書も国際調査の名に恥じぬ公正さと信憑性を獲得していたに違いない(と言うと、必ずといっていいほど「被害者の証言を疑うこと自体がセカンドレイプだ」など封殺しにかかる者が現れるが)。結局、この報告書から浮かび上がってくるのは、国連人権委員会の調査能力の欠如である。逆にいえば、独自の検証能力を欠くゆえに、外部からの働きかけによって操作可能ということだ。

さて、クマラスワミ氏が面談した元慰安婦は日本・韓国・北朝鮮にまたがる。北朝鮮が用意した人物が政府の操り人形であることは考えるまでもないが、日本と韓国の支援団体にも北朝鮮の工作機関が何らかの形で関わっている、とも言われている。つまり、異常な体験を証言する者、それを支援する者の背後には、ことごとく北朝鮮の影がある。この部分に斬り込むことが、この問題の真の解明に繋がるのではないだろうか。

過去記事「嫌韓の時代は終わった」

(フリーランスライター 山田高明 yamadataka@mbr.nifty.com)

(追記)
「植民地支配下の奴隷でしたが、日本人と一緒に宴会していました」
「植民地支配下の奴隷でしたが、修学旅行に行っていました」
「植民地支配下の奴隷でしたが、ブロマイドも出す人気者でした」
「植民地支配下の奴隷でしたが、デパートを所有し経営していました」

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