リアルなコミュニケーションは復活するか --- 岡本 裕明

アゴラ

電車に乗れば今や本を読む人は少数派でスマホ片手にテキスト、ゲーム、ネットに興じる人が当たり前です。買い物もネットで買えば欲しいものが欲しい時間に欲しい所に届けてもらえる時代です。確かに便利になった半面、失うものもある気がします。そして一部の人々は気がつき始めているようにも感じます。


昨夜テレビではサッカーの親善試合とMLB対日本の野球の放送が行われていました。そこに来る観客だけでなくスポーツバーなどで盛り上がった人たちはかなり多かったのではないでしょうか? では、便利になった時代にビール片手に家で大画面のテレビを見ながら応援する方が理に適っているのになぜ、わざわざ遠方まで出かけ、入場料を払い、応援するのでしょうか?

人々はある結びつきが欲しいと思っています。つまり、孤独では苦しいものがあります。独房で精神状態に異常をきたす人が多いとは言いますが、我々の世界においてもバーチャルの世界に浸り過ぎるとある意味、精神的なバランスに問題が生じないとは限りません。このブログを読まれる方が私の心理を想像するのは難しいでしょう。楽しそうに書いているのか、苦痛ながらも書かなくてはいけない強迫観念なのか、それは文面では計り知れないものがあります。

先日、20数名が一堂に会した知り合いばかりの無礼講の飲み会があったのですが、数年ぶりに会う人も多い中、ざっと見渡しだけでその人の状態は案外計り知れるものです。少なくともその中には深い病を持った人はおらず、楽しい会となったのですが、お酒を飲みかわした瞬間、気持のドアがぱっと開くという感覚を感じたのは私だけではなかったはずです。家飲みが増えてきた今、こんな飲み会でコミュニケーション力を磨くチャンスは十分生かされなくなってきたかもしれません。

ある講演で日本はハードウェアからソフトウェア、そしていまや、ヒューマンウェアの時代になったにも関わらず、コミュニケーション力が劣化してきた、と指摘しています。主婦が買い物かごを下げて井戸端会議をするのは「雑談を通じた日本の基礎体力」と言っておりましたがその通りだと思います。小学生は学校が終わると校庭で日が暮れるまでクラスメートとボール遊びを通じてコミュニケーションをしたものですが、最近は塾どころか、「人さらい」がいるから早く家に帰らせる、更には親が子供の友達を選択する時代になっています。

人は少なくとも自分にある程度賛同する仲間が欲しいと思ってます。家族はもちろんですが、仕事場でも趣味の場でもマンションの管理組合の会合でも自分とウマの合う人を求め、くっつくものであります(ごく例外的に非常に強い精神力を持った人もいますが、その人が実際には寂しい思いをしているのも私なりに見てきたつもりです)。

冒頭のスポーツ観戦は正にそこに行けば応援する仲間がいる、そして熱くなりたい、全てを忘れてそこに没頭したい、という気持ちの表れでありましょう。コンサートに行く人は10年前の2倍に膨れ上がっているというそのデータが示すものはバーチャルからリアルへの回帰を求めているとも言えなくはありません。

買い物に行けばある店に黒山の人だかり。人の心理とは「何だろう」と思います。あるいは長蛇の行列のラーメン屋やデザートカフェは並ぶことで盛り上がり、その美味しいものを一緒にシェアするという発想そのものではないでしょうか?

実は経済的にもあまりにもバーチャルが流行ると困るのが商店と不動産業界です。なぜならショッピングは行くのではなく、画面から買うのであればもはや商店街もデパートもショッピングモールも必要ありません。そんな中、住友系のスーパー、サミットが少し前にネット販売から撤退しましたが、個人的には嬉しい部分もあります。なぜなら、スーパーのネット販売が当たり前になった瞬間、駅前の店を否定することになってしまうからです。

便利になった世の中ですが、便利すぎるのもそれに甘え過ぎて何か失うものがありませんか? 我々の世代の様に不便さも便利さもわかっている者にとっては自己コントロールができますが、便利なことだけを知った世代の人にとって人を頼りながらモノを解決したり、相談したり、楽しんだり、議論したりすることが何か、欠落していくような気がしてちょっぴり心配な今日、このごろであります。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年11月15日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。