「故郷に住むのは当然だ」--チェルノブイリ、自主帰還の近郊住民と語る(上)

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石井孝明
ジャーナリスト

チェルノブイリ原発事故の後で、強制避難の行われた同原発の近郊に勝手に戻り生活を続ける人々がいる。放射能が危険という周囲の見方と異なり、その人たちは総じて長生きであるようだ。今でも100人程度の人が生活している。その1人に14年11月に、現地で会うことができた。

日本では福島原発事故の後で近郊の16万人にのぼる福島県の浜通り地区の人々の避難が行われ、それが長期化している。そしてストレスによる健康被害や、帰還の遅れで地域のコミュニティが破壊されて今後の地域の再建が不可能になるなどの問題が浮上している。チェルノブイリでの帰還者の姿を紹介して、福島の問題解決のヒントを探りたい。

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写真1 自主帰還者のイワンさん、77才


筆者は、作家・思想家の東浩紀氏の経営する出版社ゲンロンのチェルノブイリ視察のツアーに参加した。通訳はロシア文学者の上田洋子氏に行っていただいた。避難者の言葉はウクライナ語だった。

(参考記事・チェルノブイリ原発事故、現状と教訓「(上)日本で活かされぬ失敗経験」「(下)情報公開で誤情報の定着を避けよ」)

1・「80年代のソ連」のタイムカプセル

「故郷に住むのは当然じゃないか」。チェルノブイリ原発から、およそ南方に20キロ離れたパルイシェフ村に住む77才の男性、イワンさんは質問に自分の家に戻った理由を答えた。

訪れたのは11月の中旬。外気は氷点下だった。白樺のような木からなる森に囲まれた一軒家で、家は古びていた。周囲は農地だったが、晩秋ゆえに作物はほとんど植えられていなかった。周辺の農地は自分で食べる程度の作物を育てる農地があった。

ウクライナは穀倉地帯として知られるが、北方のチェルノブイリ近郊の地域は沼沢地で水はけが悪く、主食の麦は育ちにくい。地域の農業は畜産が中心で、じゃがいもや豆類などの野菜の畑作が行われていた。そして彼は豚を飼っていた。肉は自分で食べるという。

この村の事故当時の人口は約1000人だったが、この地方では小さめの村で、3つの村が集まってコルホーズ(集団農場)や役場を運営していたという。この地域は第2次世界大戦の独ソ戦の時にパルチザンが活動していたが、この村は巻き込まれなかったそうだ。

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写真2 朽ちつつあるパルイシェフ村の建物

村は1980年代のソ連が、そのまま保存されていた。木造の建築が数十メートル離れ並んでいたが、裕福な感じはなかった。道は舗装されていない。家の大半は原発事故後に放棄されたようで、今は朽ちかけていた。

ちなみにチェルノブイリに隣接して、原発の技術者などが住む人口約4万人のプリピャチという都市が1970年からつくられた。そこも同日訪問した。そこは近代建築が立ち並ぶ場所だった。福島出身の社会学者の開沼博氏が「福島で原発と共に近代がやってきた。チェルノブイリでも同じだった」と、ゲンロン社の解説本「チェルノブイリ ダークツーリズム ガイド」で述べていた。この地域はあまり豊かではなく、人が少なく、広大な国有地があったために、原発が建設されたようだ。福島と事情が似た面がある。

周辺部の昔ながらの農村と、当時のソ連の科学技術を集めた場でありながら事故を起こした原発、それによって作られた近代都市の対比が興味深かった。

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写真3 朽ちつつあるプリピャチ市の建物

2・近くに住んでも危険はなかった

イワンさんは妻と2人暮らしだった。ここは近くに政府の森林管理の部局と警察の事務所があり、職員がときおり様子を見たり、世話をしたりするという。上下水道はないが電気は通っていた。電話はない。現金収入は、月約2500フリブナ(ウクライナの通貨、1フリブナは約7円)の年金に、約100フリブナの補償金という。日本円で約2万円程度だ。1週間に一回ほど、業者が日用品を売りに来る。

彼はこの村に生まれた。徴兵で軍に行った後で退役後は近くのプリピャチ川の船の船員をしながら、農業もしていたそうだ。原発事故の後は、チェルノブイリ原発で警備や管理に雇われた。被災した周辺の住民対策だろう。そして年金がもらえるようになったために、この地に移り住んだ。ウクライナ政府はこの地域での居住を原則禁止しているが、こうした人の存在を追認してしまった。

放射能の恐怖はないのだろうか。彼は軍にいた時に、放射線防護関係の部隊で文章を管理し、その知識があったという。「この村は健康に危険という放射線のレベルではまったくなかった」そうだ。水も、土地も原発事故の後でも放射線量は大きな変化はなかったそうだ。ただし具体的な数値は聞けず、今は計測している形跡はない。ただし、持参した放射線測定器では、この村の放射線量は、毎時0.5マイクロシーベルト程度と低かった。

一緒に集団農場(コルホーズ)を運営していた近くの村は、放射線の線量が高かった。地形や風向きで汚染度はかなり違った。この村は原発の南にあるが、事故当時に風は南から北に流れ、北方のベラルーシや北欧諸国に汚染物質が広がった。

私たちは、原発事故での放射能による汚染について一定地域がまんべんなく汚染されると思い込んでいる。ところが福島原発事故の汚染を見れば分かるように、そうではない。放射性物質が拡散した風、また雨などの水の動きで、拡散は一定地域に均等に起こらない。

3・避難者に向けられた差別、そしてストレスの広がり

イワンさんは、自分の健康は「年を取ったこと以外、あまり問題はない」という。彼の同世代の住人、兄弟が避難したが、大半の人が亡くなってしまったという。避難した場所ではチェルノブイリからの避難者は差別された。当時、店などでは「チェルノブイリの奴らが来た」とささやきが広がり、人々が逃げ出したという。「けれども、そのために、長い列をつくって店に並ばなくてもよかったがね」と、彼は笑った。

そして「多くの人が病気になったのは心の負担のためかもしれない。私は自分の故郷にいられて、そうした負担はない」と話した。

旧ソ連では情報が隠蔽され、正確な情報が伝わらなかった。しかし情報にあふれた日本でも、福島をめぐって「汚染されている」というデマ、誹謗、福島への差別が今でもある。同じ混乱が起きたことは、とても残念だ。

イワンさんは、今後もこの地に住み続けるそうだ。「この地は美しく、人が幸せに生きるものすべてがそろう。私が残念に思うのは、この美しい土地を活用しないことだ。今は私が一人で勝手に使っている。もったいない」と言う。

原発については、チェルノブイリに原発が建設されるという話を聞いたときから、心情的には反対だった。「原子力は危険だ。こんな事故も起きてしまった。しかし電気が必要な以上、原発は仕方がないが、安全に使っていかなければならないと思う」と、意見を述べた。

このツアーで、チェルノブイリに今でも関わる人に質問すると、簡単に原発「賛成、反対」と結論を述べない。あいまいな答えが返ってくることも多かったし、自分の体験を長々と話した後に賛否を口にした。イワンさんもそうだった。そして、これは福島の住民の方と話したときも同じだった。頭の中だけで原発を考えているのではなく、重く、長い個人体験の中で原発と向き合ったために、簡単に答えを出せないのであろう。

ただし彼が帰還した理由は、故郷への愛だけなのだろうか。確かにスラブの農民の土地への愛着は、文学などさまざまな形で描写されている。しかしそれだけが理由ではなさそうだ。妻の体の具合はよくなさそうだし、2人の息子もなかなかここにこないという。個人的事情があるのかもしれないが、私は彼の内面に踏み込んでわざわざ聞くことはできなかった。

元気に「さよなら」をいうイワンさんを後に、私は村を去った。

(下)福島でなぜ失敗を繰り返すのか」に続く。