選挙結果を見ながら日本における全ての『改革』について考える

2014年12月14日 19:40

この原稿は、いわゆる「予定稿」として選挙結果が出る前に書いているわけですが、事前の見込みどおりに行けば選挙結果は与党の圧勝、いわゆる「アベノミクス路線」は信任された・・・ということになっている状況だと思います。(待ってるの面倒になったので速報前にアップしてしまいますが、もし大どんでん返しがあれば撤回します 笑)

それに対して、
A・「左翼ざまぁ!」的な凱歌を上げている人
B・「とりあえずほっとした」という人
C・「絶望した!右傾化する日本に絶望した!」
という反応が大まかにいうと考えられると思いますが、ふと考えてみると、

実はBとCは相互理解可能な未来を描いていて、その結果はAの人にも悪いものじゃないはず

なのではないかと私は思っています。

Bのあなたは、

『もう右とか左とかわけわからん論争はいいよ。ある意味引き返し不能なアベノミクスやりはじめちゃったんだから、もう完遂するしかないだろ?お前らちゃんと危機感持ってんの?』

と思っていることが多いだろうと思いますし、そうするともういわゆるアベノミクス「第三の矢」=「構造改革」をやりきるしかない、どうしたらやりきれるだろうか?ということがイシュー(決定的な課題)になると思われます。

で、そういうBの人が思っている「改革」と「C」の人が思っているビジョンというのは「全っ然違う」ように一般的に思われているが、そこが「薩長同盟」的に結びついて同じビジョンに向かって動き出さないと、結局日本における「Bの改革」も「Cの改革」も決して進まないだろう、しかし、そこが「結びつきさえすれば」、絡まった紐があるキッカケからスルスルとほどけていくように、日本における「改革」は進むし、

Bの人の願う「構造改革」
Cの人が願う「”戦後左翼主義の夢”みたいなもの」

の延長に、

Aの人が願う「日本すげえええええ!イヤッホー!!」

という構図が成立するように持っていけるんじゃないかと私は考えているわけです。

これは、

・「安倍政権的なものをどうしても潰したいと思っているCの人」にとって、今までのやり方では決して突き抜けられなかった積年の課題の解決の方向性を示すもの

であり、

・「構造改革をやりきりたい人」「グローバル経済における日本の戦略性をしっかり打ち立てたいと願うBの人」にとっても、自分たちの戦略への「抵抗勢力」をうまく説得して本当に「改革」をやりきるための方策として参考にしていただけるもの

になっています。


目次は以下の通りです。

1・「戦後左翼の夢」と「構造改革者の夢」は実は同じ地点に着地したがっている。
2・「護持された古い国体」を壊すときには、「あたらしい国体」が必要になる。
3・”良識ある市場主義”への「大政奉還」が必要
4・英国的良識との連携と、日本の人文系の思想家(及び左翼メディア)の可能性が最後の鍵

とりあえず安倍政権は信任されたわけですし、安倍政権が憎くてたまらないCの人も、「なぜ安倍政権が今信任されているのか」について、それは自分たちの提示する現状認識や未来像について、何か真剣に問い直さないといけないことがあるからだ・・・というふうに、負けた選挙の次の日ぐらいは考えてみてもいいんじゃないかと思います。

一方で、「構造改革」を目指すあなたも、このまま第1の矢と第2の矢だけで乗り切れる情勢じゃないのは薄々わかっておられるでしょうし、ならば「日本における改革の難しさ」について一段深い視点から捉え返してみる・・・ような時間があってもいいように思います。

初めての方もおられると思うので、少しだけいつもやっている自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2012/07/blog-post_18.html

で、今はコンサル業に戻っているんですが、こういう「ナショナリズム的なものと、経済・経営 に関する問題の相互関係」について考える「経済思想家」というのも職業として掲げて、過去に三作の本を発表しています。(『21世紀の薩長同盟を結べ』『日本がアメリカに勝つ方法』『「アメリカの時代」の終焉に、生まれ変わる日本』

この問題は、「A・B・Cの3つのグループのそれぞれの内側」だけで盛り上がっていてもなかなか前に進めません。国レベルの決定的な決断の瞬間になってくると、別のグループの中の「どうしても譲れない一線」とぶつかってしまうからです。

しかし、現代社会の中でキチンとした有能性を発揮して生きようとすると、それぞれのグループの内部的論理をしっかりと内面化して研鑽に励むことは避けられない義務とすら言えるところがあります。

だからこそ、ネットの一期一会の中でこの記事に出会ったあなたが、私の体験を通じて「別グループの人との共同ビジョンの立ち上げの可能性」を感じていただければと思っています。

安倍政権が好きな人も嫌いな人も、ある程度共有できる方向性・・・が立ち上がって来ない限りは、そろそろ「シャレにならない」レベルの袋小路にぶつかりつつあるのがこの国ですからね。

1・「戦後左翼の夢」と「構造改革者の夢」は実は同じ地点に着地したがっている。

私は自分のことをいわゆる「リベラル」的な人間だと思っているんですが、しかし安倍政権のことは第一期の頃から真剣に応援していて、金融緩和路線には個人的には乗り気でないものの、ある種「賭け」に出てやり始めてしまった以上、いろんな情勢的にもうこの道は突っ走るしかない、議論はあとにするしかない・・・というようなことを思っています。

でもね、こういうことをいうと、ネットとかで私の主張をほんの一部分だけ見て「お、仲間だ!」って思って近づいてきた人が、私が安倍政権支持者だと知ったら突然豹変し、「信じてたのに裏切られた」的な反応を受けることがあったりするんですよ。

「勝手に期待して勝手に裏切られないでくれよ」的な感じもしますが、そういうのは個人的にショックが大きくて、だから折にふれて「彼ら(おそらくこの記事冒頭で言う”C”のあなた)の気持ち」について色々と知ろうと努力はしています。

で、最近の「左翼論壇」的には異色のヒット作となった白井聡氏の『永続敗戦論』という本を頑張って読んだんですよね。これは結構心理的にしんどくて、細切れ時間に読んでいたこともありますが、そう長い本ではないのに1ヶ月強はかかりました。

議論の内容自体はまあ追えるんですが、最初のうちは、著者の白井氏(およびこの本に心理的にコミットしているあなた)が「何に怒って」いて「何に侮辱されたと感じて」いるのか、どうしても理解できなくて、読み進むたびに常に「読者である自分」がものすごく作者に罵倒され続けているような気持ちになっていたんですよ。

ただこの本は一般的な印象と違って、内容的にはかなり”中立的で冷静”な本だということはだんだんわかってきました。いや、全編にわたって強烈に怒っているので”冷静”とは言いがたいかもしれないが(笑)、少なくとも中立的であろうとする意志は強固にあって、決して「戦後左翼的な惰性の延長で”右”っぽいものに怨念をぶつけている」本ではないのはわかった。

要するにこう、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

のだということに共感できてからは、一気に読めるようになって、残っていた後半半分ほどのページはあっという間に読み終えることができました。

でも、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

っていう言い方をすると、これはあらゆる「構造改革の完遂を望んでいる人たち(この記事冒頭で言う”B”の人たち)」と同じ「気持ち」といっていいように思います。この文章↑だけをとってみれば、それがどっちのグループの気持ちを指しているのかわからなくなるぐらいですよね。

私は最近仕事で、ある「グローバル展開している日本企業」の内実に触れる機会があったんですが、その会社はビジネス書や日経新聞的には実に「日本企業のグローバル化先進事例」っぽい印象の会社にもかかわらず、その会社の海外販売子会社で働く人たちの孤立無援っぷりに涙を誘われる思いがしました。

なんかこう・・・本社側の内部都合の延長で、純粋に日本国内だけの空気の支配で出された製品ラインナップを押し付けられて、

本社・「その国で売れ」
子会社・「え?はい、まあ売れと言われりゃ売りますけど、もうちょっとラインナップごとに特徴がわかりやすくなっててくれるとこちらも展開のしようがあるかと思うんですけど・・・」
本社・「今期はこれだけの数売れ」
子会社・「・・・・わかりました」

まあ実際こういう会話をするわけではないでしょうが実質こんな感じで、「火炎瓶で戦車に立ち向かったノモンハン」とか、「食料がないから畑を作って自給自足していた南方諸島戦線」を彷彿とさせられました。(それでいてかなりの海外売上比率を維持してるところがまた旧日本軍兵士を彷彿とさせるわけですが)


この絵↑の感じなんですよね本当に。

実はこの絵↑的な状況が社会の中に発現してしまうメカニズムを全体としてコントロールできるかできないかが、戦前における近隣諸国と自国民の不幸を再現せずに住むかどうかの決定的問題なわけですよね。だからこそ、その問題のコントロールに関する現実的な社会運営テクニックの習熟こそが、「戦争責任に対する本当の反省」であるはずなんですよ。「痛切な反省とお詫びの気持ち」なんて言葉を何億回繰り返したって、自分はなんて善人なんだろうと悦に入る効果はあるかもしれないが、再発防止には全然なりません。

元マッキンゼー日本代表の大前研一氏が最近の著書で、「昔の日本企業(彼が現役のマッキンゼーコンサルタントだった頃)には戦略を提示したら”やろう!”となってガリガリ実行する力があったが、今はそれが全然なくなってしまった」的なことを嘆いておられましたが、実際あらゆる参加者が責任逃れ的に空気を読んでいるだけで、決して横軸に連動した大きな戦略性を具現化できず、結果として末端に生きている「最前線兵士」に過剰な負担が押し付けられるという「この実に日本的な現象」は、今の日本にむしろより広がっている部分があります。

こういう状況のことを、前述の「永続敗戦論」的な立場から言うと、「無責任の体系」by丸山真男という風に言うのだろうと思います。

その「無責任の体系」の問題は、原発事故をめぐる迷走、沖縄基地問題に関する迷走・・・といった問題だけじゃなくて、現代日本の多くの企業体の内実、社会運営の内実として、どうしようも抑えられない悪癖として噴出してきています。

こういう問題を「構造改革主義者」的な論客は、「部分最適へのこだわりで全体最適が壊滅的なため、結局有効な運営が全然できない状態」というような表現をするのだと思います。

ほら、なんか「似たような問題意識」なんだな・・・って「気がしてきた」でしょう?

もちろん、近隣諸国との関係の作り方だとか、経済の運営の仕方だとか、そういう「気持ちが似てるからって目指す内容は違うんだよ」というのは重々承知しています。

しかし、「目指す社会の”感じ”」が似ているんだということは大事な発見です。日本人はたとえ「この記事冒頭の”A”の人たち」ですら、日常的にありとあらゆる部分で空気を読みまくらないといけない社会に少し疲れている部分はあるんですよ。「日本らしさ」「日本の良さ」が失われないのであれば、もっとクリアーでオープンな論理が通る社会にしたいというのは現代日本人の平均的な感覚と言って良いでしょう。

そしたら、どうしたらこの問題が乗り越えられるのか?について考えられそうな感じがしてきますね?

しかしその、”「日本らしさ」「日本の良さ」が失われないのであれば”という付帯条件が大事なんですよね。

でもそこさえ担保できるのならば・・・という視点で考えてみると、これは「全く違う立場」ではなくて、「どうやって段階的に移行させていくのか」という技術論的な話なのだという気が・・・してきませんか?

とりあえず「気がしてきた」程度でいいので、そういう気分のまま次の章へお進みください。

2・「護持された古い国体」を壊すときには、「あたらしい国体」が必要になる。

「永続敗戦論」(あるいはこの本にシンパシーを感じる人の議論)を読んでいて、どうしても私としては引っかかるのは、「無責任の体系」by丸山真男に該当するのは、戦前の日本をリードした責任者の”直系の子孫”である「自民党的な政治家と官僚組織と”財界人”」だけに限定して話を進めているように見えるところなんですよね。

でも、今や自民党政治家だって官僚だって”財界人”だって戦前と同じ人間がやっているわけではないですよね。

もちろん丸山真男氏がこの話をオリジナルにしたのは戦争直後ですから、その時は本当に同一人物だったんでしょうが、しかしそれでも、この「無責任の体系”現象”」とも言うべきものは、別に「自民党と官僚組織と財界人」だけのビョーキというわけではないわけですよね。

”一億総懺悔”的なことを言うようですが、メディアだって学者だって”何も悪いことをしていない日々頑張って働いている私ら庶民さん”だってこの「無責任の体系」に一役も二役も買ってるわけじゃないですか。

そこのところで、この「日本人が克服するべき”無責任の体系現象”という課題」を、戦後何十年の間、右の人も左の人も「全部相手側の責任」にして来たところがあるんですよね。

確かに現状の官僚システムは色々と機能不全が起きていて、「どの程度・どういう形」かはともかくもっと現場の自律性が自然に発揮される形に持っていくことが重要なんだろう・・・ということは、私と同じ世代なら中央官僚本人だって口をそろえて言うことだと思います。

ただ、いくら縦割りの弊害があろうと、中央官庁にはそこに降り積もった歴史の重みで逃げられない責任を「その分野」に対して持っている人間たちとノウハウの集積があって、ただそれを壊すだけだと、

「一つの”無責任の体系”を壊したら、別のもっと巨大な”無責任の体系”が出現した」

ということになりかねません。いや、ただ壊すだけだと明らかにそうなると断言してもいい。ちっちっちっ、日本人の集合体が持っている、泣く子も黙る「全体最適を扱うことの苦手さ」をナメてもらっちゃあ困るぜ!という感じです。

要するに、「永続敗戦論」的立場からすると「あらゆる侮辱の源泉」であるかのような「現状の”国体”」に我慢ならない思いを抱いているのは、おそらく結構な「マジョリティ」といっていいほどなんですよね。しかし、

「その国体」を壊した先に、どういう未来があるのか?

が大事なんですよ。明治維新以降ずっと続いてきている体制自体をぶっ壊したいなら、「着地」まで考えないといけない。「着地」さえ綺麗に決められる目算が立つなら、「古い国体」ぐらい明日にでも壊していいよ・・・というぐらいなのが日本人の歴史的な「体質」と言って良いだろうと思います。

で、実際には、「古い国体の延長」が博物館的に生きている領域のほうが、部分的ではあれ「まともな責任体系」が生きているのが現代日本なんですよね。

トヨタみたいなある意味古い体質の企業がやっぱり日本を代表する成果を出しているし、大前研一氏が現役コンサルタントだった時代は、「大前氏のような戦略性」と、「古い”国体の延長”」が共鳴しあって「全体最適と部分最適が調和して運営」されていたと見るべきでしょう(ほんのちょっと前までの韓国経済のように)。

もちろん、新進のカリスマベンチャー経営者が「個人的膂力」でコントロールしている範囲には「責任体系」が生きている部分はあります。でもこれはその「特殊な個人のカリスマ性」によるものでしかなく、「あたらしい時代の国体」に値するものになるかどうか・・・は、難しいと言わざるを得ません。

要するに、「古い国体」を壊したいなら、「あたらしい国体」を用意する必要がある・・・ってことなんですよね。「あたらしい国体」がだんだん練れてくれば、「昨日までの自分たちってなんだったんだ」的な節操なさで転換する性質があるのも、日本人の歴史が示していると言っていいでしょう。

この絵↑のように、「あたらしい納得できる国体」の”影”ぐらい見えてくれば、もう「古い国体」なんてポイー!的な感じになるのが歴史が証明する日本人の本来的感性なわけですからね。

「国体」とか言うと大仰ですけど、要するに「こういう風にやっていこうという共通了解」とか「空気」をどう作るのか・・・ということなんですよ。

その「共通了解をつくろうとする空気」がないと、果てしなく細分化されたタコツボの中で「俺は悪くない。俺は責任を果たしている。あいつらが悪い」とお互いを攻撃しあうだけに終わってしまう性質が日本人には特に強くあるからです。

セクショナリズムが横行して、あらゆる人間が内向きにただ自分の身の回り数十人の利害しか見ないでその延長をやろうとして、その無数のタコツボの寄せ集まりみたいになった全体的集団の運営はどこにも方向性がなく、結果としてありとあらゆる「現場」にシワ寄せがいって、「火炎瓶で戦車に立ち向かったノモンハン」とか、「食料がないから畑を作って自給自足していた南方諸島戦線」は日常的に大量生産されてしまうわけです。

そういう社会運営の失敗が「大本の原因」としてあって、”それによって抑圧されたあらゆる現場の不満”が一方向的に暴走していく先に、先の大戦のような不幸は”あくまでその結果として生まれてくる”んですよね。

そういう「巨大なエネルギーが行き場を失って暴走しはじめ」てから”個人的にできる範囲で止めようとした人間(今の時代絶対的に善人扱いされる)”と”もう仕方なく乗ってしまった人間(今の時代絶対的に悪人扱いされる)”との間に倫理的な差があるのか?っていうと私はほとんど無いと思っています。

その前の時点でそういう問題がそもそも起きないような「社会の運営テクニック」を身につけようとせずに放置していた時点で結局五十歩百歩だからです。

そこで、

「横断的な最適性を共有して、現場レベルの必死の働きが意味ある成果につながるように持っていくことが大事です。そしたら暴走するエネルギーを暴走させずに現実的な成果に繋げられるようになるよね!」

と書くと、これはもう安倍政権が嫌いとか好きとか関係ない、ある程度インテリな日本人共通の「悲願」みたいなものだと言えるでしょう。

もちろん、こういう言い方は、「経済分野」を偏重しすぎていて、私が大事にするような社会的正義や公正性の議論にはなじまない・・・という「(この記事冒頭の分類で言う)C派」のあなたもいるでしょう。

しかし、「そういう問題」こそ、極論同士の応酬に陥らずにお互いの良心を共鳴させあうような解決に向かわせるためには、「経済問題以上」に、こういう「横断的な最適性の共有の機運」が必要なんですよね。

そして、「極論同士の応酬」状態から、もっと豊かなメッシュ感で微調整が常に可能な状態に持っていかない限り決して解決しません。その辺りのことは、日韓関係や朝日新聞の問題について書いた前回の記事を参照いただければと思います。

では、どうしたらそういう「あたらしい国体」を作っていけるのか?それは次章に述べましょう。

3・”良識ある市場主義”への「大政奉還」が必要

ここまでの問題を一言でまとめると、なぜ日本におけるあらゆる「改革」は右も左もあまりうまく行かなかったのかというと、

「古い国体」vs「ものすごく荒っぽい改革主義」的な二者択一

になってしまっていたからなんですよね。

要するに、問題は「改革主義のメッシュの粗さ」なんですよ。

メッシュの粗さ・・・というのは、前回の記事で書いた

高級車のサスペンションは密度が高いので、多少の段差があってもそれを柔らかく受け止めて乗っている人に衝撃を伝えません。一方で、安い車のサスペンションは密度感が荒いので、ショックが入ってくるとガツーンと両極端に触れてしまって衝撃が大きくなります。

イメージを持ってもらうためにいろんな例を話しますが、例えば商いの量の大きい大型株は多少のショックがあっても吸収されて株価の変動が緩やかになりますが、取引者があんまりいなくて商いの薄い株はちょっとしたショックでものすごく乱高下したりします。

そういう「メッシュの粗さ」的な問題を解決することが、今の日韓関係で一番大事なことなんですよ。

「ここまではお互い飲める」「ここから先はいくら”被害者側”だからって言いすぎ」という微調整が、最近流行のハイレゾオーディオのようにどこまでも「高精細」に読み取れるようになっていけば、日韓関係の改善は進みはじめるでしょう。

的な問題です。議論がゼロイチに極論化してしまうので、ビジョン的にはかなり共鳴してくれるような層ですら、その変革に参加してこなくなってしまう。

官僚を敵視するあまり、ありとあらゆる問題を官僚のせいにして妙に陰謀論的になってしまうとか。

市場原理による統治で全体最適を回復しようとするあまり、ものすごく荒っぽい議論で「現場的優秀性」まで消し飛んでしまうような方策を実行しようとしたりとか。

そういう「極論から極論への変動」をうまく受け止める良識の共有がちゃんと生まれてくれば、「変革」自体はトヨタの生産ラインが日々構成員の自発的工夫の積み重ねによって全然違うものにブラッシュアップされていくように、日本は「変革が常態」なぐらいになれるんですよ。

以下の絵のように(クリックで拡大します)、

「変動を取り込めるサスペンションの形成」こそが、日本において「改革」を進めるために今どうしても必要なものなんですよね。

こういう問題で難しいのは、現代社会というのは、ほんのちょっと油断すると完全に「社会が隅々までアメリカ化」してしまう流れに常に晒されているんだということなんですよね。

だから、「良心を持った改革者」が「ほんのちょっと、俺があと一歩手を伸ばさせてくれたら俺の身の回りのあらゆる人にとって有益な改革ができるはずなのに!」と思って「改革」を断行した時に、その切れ目から果てしなくグローバリズムの良い部分も悪い部分も一緒くたに流入してしまって、いずれアメリカみたいに末端のスラム街は果てしなくもうどうしようもない暗黒に包まれてしまうような社会になってしまう可能性がある。

つまり、あなたがどういう立場にしろ、この記事をここまで読んでいるんだから相当に意識の高い、「トップ数%」的な良識を持った改革派なんだろうと思います。しかし、その「ティア1」のあなたの良心を具現化する「改革」を一歩行った時に、なんにも考えてない欲望のままに動く「ティア2」「ティア3」的な有象無象が暴走して、どこまでも「アメリカ的分断」の中に落ち込んでいく可能性があるわけです。

この問題は常にこういう「合成の誤謬」を抱えているんですよ。合成の誤謬っていうのは「劇場の客席で立った方が舞台がよく見えるぜ!俺って天才!」と思ってみんなが立ち上がると誰もが余計に舞台が見づらくなる・・・というような問題のことです。

ノーベル賞を受賞された中村修二氏のインタビューが、彼が背負っている日本社会との関係における運命ゆえに、常にこの「典型例」という感じになるんですが、「日本にはこういう良いところがあるが、こういう悪いところがある」「アメリカにはこういう悪いところもあるが、こういう良いところがある」までの現状認識はほとんどの人が合意できて、できれば「アメリカの良い部分」を取り入れていきたいね、となるんですが、「アメリカの良い部分と悪い部分は表裏一体」なので、無理やりに「アメリカの良い部分を直輸入」しようとすると、「日本の良い部分も消えるわアメリカの良い部分ほどの良さは身につかないわ」となるし、そういう「風潮」が暴走すればするほど余計に社会全体を必死に防衛的な引きこもり状態にして内輪でグズグズやってないと社会が崩壊してしまう本末転倒的状況になっていくわけですよ。

つまり、中村修二氏の懸念は物凄いもっともなんですが、彼のような発言パターンが横行すればするほど日本は内向きにならざるを得ない構造的問題があるんだってことなんですよね。

でも、このままでいいとは誰も思ってないわけですよね。だからこそ、「一般論じゃない個別解」を徹底的に考えて、「アメリカが現時点で実現している”良さ”を、日本ならではの経路で具現化する方法」について真剣に考えなくちゃいけないんですね。そこがシッカリできれば、内輪でグズグズ守り合って「国体護持」をする必要がなくなるんで、成果物のグローバルな売り込みだって当然乗り気になって広範囲の力を自然に結集できるようになるわけです。

私は最初の本を出した時に、マッキンゼーの卒業生MLってところで著書の宣伝がてらこういう議論をふっかけたことがあるんですが、色んな人から異口同音に「そういう議論は結局全てをナアナアにしたい既得権益に安住する人間を利するだけに終わらないか」という指摘を受けました。

そういう懸念は常にあるのは当然ですし、「ある具体的な改革」を今まさに実行している現場にいる人にはそういうガッツが必要だということもわかります。しかしそういう人の改革すら、その思いを遂げやすくする「環境そのもの」を整備するにはこういう「もう一段広い範囲の議論」が実は不可欠なんですよ。

それでも、そういう場で私のような議論を持ち出すと、どうしようもなく「固陋な守旧派」的なイメージになってしまうんですが、でも私が言っていることは、アメリカのティーパーティー運動の参加者や、その背後にいるスポンサーたちよりも、本質的にはさらにもっとずっとラジカルなことなんですよ。

一方向的に無理押しにしたって前に進めないけど、最初の部分で丁寧にやればだんだんスムーズになって加速がついていって最後まで行けることってたくさんありますよね。成田空港だって、最初のところでもっと誠意を尽くしていればいまだにこじれてるなんてことはなかったはずなわけで。

たとえるなら!知恵の輪ができなくてかんしゃくを起こしたバカな怪力男という感じだぜ (ジョジョの奇妙な冒険の空条承太郎のセリフ)

で、じゃあどうすればいいのか・・・・というのが、この項のタイトルに書いた「良識ある市場主義」的なものへの大政奉還・・・ということになるんですよね。

例えば、最近メディアでちょっとずつ注目されつつあるデーヴィッド・アトキンソンさんという方をご存知でしょうか。

彼はイギリス人で”あの資本主義の権化”ゴールドマン・サックスの元役員であり、投資銀行時代には日本の不良債権の一括した処理方式の提言で有名になり(古いタイプの”財界”と相当やりあったそうです)ながら、40代で退職後、京都の町家を買ってオリジナルな時代の様式で修復して移り住んだり、裏千家の茶道を習ったりと悠々自適生活をしていたところに、別荘が隣だったという縁で日本の国宝や文化財の補修を行う会社の社長になった人です。

↑なんかこのプロフィール、前半と後半で同じ人物とは思えない感じですけど(笑)でも、著書とネットニュースで拝見しただけでも、彼の存在は本当に面白いです。

アトキンソン氏は、小西美術工藝社の社長になってから、文化財の質に関わらないコストを徹底してカットした上で、果てしなく年功序列で上がっていく職人の給料を高齢層の部分である程度抑制した分、若手職人を全員正社員として登用、技術の継承にも力を入れ、また国内の文化財の修復には中国産でなく日本産の漆を使うべきだという運動を起こして実現させたり・・・と、八面六臂の大活躍をされています。

いろんなネットニュースにも取り上げられていますが、この日経ビジネスオンラインの記事が、一番「内実」まで踏み込んだわかりやすい記事だったように思います。

一般企業は年齢とともに給料がある程度まで上がっていって、その後は定年に向かって下がっていく中で、職人だけが80歳になっても自分たちは給料が上がっていくべきというのはおかしいでしょう。そして、若い人は職人になりたがらないと言いますが、そんなことはありません。

80歳になっても果てしなくあがっていくことになっていた給料システムを改めることで、若手にちゃんと正社員の職を与え、技術研修もシッカリやり、古い伝統技術の継承もできるようになったし、各方面に働きかけることで中国産でなく日本産の漆を使うこともできるようになった。

要するに、「国宝」とか「日本人の心」を守る・・・といっても、その存在があまりにもアンタッチャブルになってしまうと、余計にそこに回るお金が減ってしまって縮小均衡が続き、そもそもその「文化を守る」という目的すら果たせなくなってしまうんですね(実際アトキンソン氏 が日本の文化財の現場で見聞きしているように、そういう形で果てしなく余計に荒廃させられていっている”日本の良さ”というのは厳然としてある)。

逆に、ちゃんと「配慮した上での適切な市場主義」を通していけば、壊死寸前だった「日本の本来的な良さが眠っている部分」にあたらしい血が通い、若い人がちゃんと正社員として参加し、伝統が継承され、好循環の中に自然に未来へつながっていくあたらしい文化が生まれる可能性があるということなんですよ。

10年ほど前の小泉政権ぐらいの時に、日本では「モノ言う株主」っていうのが脚光を浴びたことがありましたが、あの時代の「モノ言う株主」っていうのは、正直7割ぐらい良いこと言ってても、残り3割で日本が瀬戸際で守ってる日本の良さの根源みたいなものまで全部根こそぎ吹き飛ばしてしまうようなムチャクチャなことを言ってることが多かったですよね。

あの時代に彼らに過剰な権力が与えられてしまっていたら、その後ほんの数年の好調期は謳歌できたかもしれないが、そのうち馬脚を現して今頃日本はアメリカみたいにスラム街は本当にムチャクチャなスラム街になり、日本経済の強みを支えていたようなある種の密度感は根こそぎ吹き飛んでしまい、かといってアメリカが社会のあらゆるエネルギーを一点集中することで実現している類の産業では微妙な成果しか出せず、結果としてどこにも強みがないスカスカの経済になっていたでしょう。

逆に言うと、そこまで行くわけにいかないからこそ、日本のいわゆる「抵抗勢力さん」が「古い国体」を護持すべく耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで押し返してくれていたんだと言えます。

そのおかげで、自動車産業や工作機械、電機産業でも微細な基幹部品産業・・・といった「密度感」が必要な分野では世界最強といっていいほどの位置を失わずにいられている。

もちろん、結果としてグローバルBtoCビジネス的な、ここ10年サムスンが大得意だったような世界からは果てしなく凋落しています。「内輪で肩寄せ合って維持してきた密度感」も、ちゃんとグローバルに売っていける状況を作らないと、日本の国宝修復ビジネスが陥っているような「根腐れ」状態になっていく危険性があります。

でもね、そういう分野においても、「自分たちなりのユニークな強み」の部分が断固「国体護持」されていれば、その延長としての売り込みが必ずできる時代や情勢はやってくるし、そうやって「日本人の共有できる強み」を一体的に押し出していってこそ、末端レベルにおいて「”国体”に押しつぶされる帝国軍人の悲哀」を本当の意味で消していくことも可能になるんですよね。

「(良くないタイプの)モノ言う株主」的な、「グローバリズムの威を借る狐」みたいな存在が私が心底嫌いなのは、彼らは「今の時代たまたま脚光浴びてる存在」の尻馬に乗って「それ以外」をぶち壊すようなことを言うだけで、「その次」を描くために必要なユニークネスに対する理解が全然ないことなんですよ。(で、今後もし”日本の良さ”がちゃんと一貫して提示していけるようになったら、彼らはこぞって10年前からそれに着目してたかのような口ぶりで話し始めるんで、その時はシッカリ嘲笑してやりましょうね)

で、そういう人たちの暴走を排除したことによって、日本メーカーにはちゃんと蓄積されてきた技術ってのがあるわけですよね。もちろん、今の時代それが「わかりづらい」存在に押し込められているから、世界的なプレゼンスは低下している。

でも最近、ハイレゾオーディオとか、4Kテレビとか、「画質とか音質じゃねんだよぉ、これだから日本メーカーはわかってねえよなあ」と罵倒され続けてきた商品に光があたりつつありますよね。デジカメだってスマホに取り込まれていきつつ、プロユースに近いような一眼レフは未だに日本メーカーの存在感が抜群です。

スマホが普及してから、新興国経済の発展もあいまって、世界中でものすごい数の人間が携帯で音楽を聞き、動画を見、写真を撮って、ネットで共有して・・・ってやってるわけで、それは「ウォークマン(というか携帯音楽プレイヤー)・テレビ・カメラ」のローエンドモデルには大打撃ですけど、超高密度ハイエンドモデルに関しては「見込顧客が世界中にバンバン大量生産されてってるウハウハな世界」とも言えるわけですよ。

「その領域」を取りに行く一貫した戦略を持たなくちゃいけない。そこだけは絶対にサムスンに取られてはいけない。いいか、絶対にだ!

私の父親はカメラマニアで、もう物置状態になってる私の実家の部屋にはある日本のカメラメーカーのレンズやらカメラやらが「なんでこんなに・・・」ってぐらい”陳列”されていたりして、そういう環境で育った自分としては、「全部汎用品的スマホに収斂しちゃう」のはある種の「人間感性の底辺への競争」だなと思ってるぐらいなんですよね。

また、そういう「技術的ハイエンド」とはちょっと違いますが、「デザイン潮流」的なものでいっても、「アップル的なミニマリズム」を超える流れを生み出せるのは日本の「密度感」の成果物であるはずなんですよ。

例えば私は少し前に妻が使うソニーのノートPCを買ったんですが、そのデザインのカッコよさにシビレたんですよね。このタイプのピンクで、ウェブサイトで見ても全然どうってことない平凡なピンクですけど、実物の天板とか見ると「ムチャクチャかっこいい」です。

もうなんというか、製造前のサンプルが上がってきた時に、「いやいやこの色じゃないですよ」「え?ピンクですけど?」「ピンクだったら何でも同じピンクと思っててもらったら困りますよ全っ然違う色になってるじゃないですか!」的なやりとりでシバキまくってやっと出る色と質感みたいな感じで。

新型のエクスペリアもよぉく見ると、背面のガラスの質感とか「カッコイイですよねえ・・・」って携帯ショップの店員さんと一緒にため息ついてきたぐらいで(でもその家電量販店での売られ方たるや全然そんな見え方がされてないんですけど)。

こういうのは、テレビ出版音楽広告その他東京のオールドマスメディアが寄ってたかって突き回して維持してきた密度感の中で鍛えられた「おいしい生活」的な爛熟した消費文化の積み重ねの中で、やっと成立する世界なんですよね。

これに比べたらアップル製品のアルミの塊をゴロッと削り出しただけのデザインなんてミニマリズムと言えば聞こえはいいが、「シリコンバレーギークが理屈で扱える精一杯のオサレ感」というか、もっと言えば「チャキーン!カシーン!ジャキーン!超・変・身、合 体ッ!ドッカーン!!うおおおおおおかっけえええええ!」的な小学生男子のセンスと言っていいでしょう。

ただね!私個人は、所詮自分なんて小学生男子のセンスがお似合いだし、それ以上ハイセンスだと困るよな・・・と思ってここ数年はMacBook AirとiPhoneユーザーなんですよ。昔はVAIO使ってたんですけど、平井社長体制になって明らかにプロダクトが良くなったんで、むしろカッコよすぎて苦手みたいになってしまって乗り換えたってぐらいで。そういう意味でのアップル的デザインのニーズは当然今後も残るはずなんですよね。

でも、「このアップルのセンス」が「唯一無二のハイセンス」として通用してる世界は、「上」があまりにも画一化されて抑圧されてる世界だし、ソニーが一部製品で体現しているようなデザインの志向性を潜在的に強く求めている層は確実に世界にいるはずです。(でもウェブサイトで見る上記のVAIOの天板がものすごい平凡に見えるように、はっきり言って全然売り込めてない)

アメリカンな理屈だけで追い込める最大公約数的なミニマリズムデザインとも違うし、なんか奇抜なことして目立てばいいんでしょう?的な新興国メーカーのデザインとも違う。表参道とか代官山の裏通りのセレクトショップ的な文化の分厚い積み重ねとか、僕は行ったことないんですけど新宿伊勢丹みたいな価値観を軸として二十年以上旋回し続けてきたバブル世代のお姉さんたちの消費意欲と吟味の積み重ねによってやっと実現するデザインなんですよね。

そういう「技術的ハイエンド」にしろ「デザイン的ハイエンド」にしろ、「日本人1億人の日常を活きる丁寧さと密度感の総体」に支えられているユニークネスなわけですけど、それをちゃんと明確に対象化して取り扱って、そこにグローバリズムがあらゆるダイバシティをなぎ倒して標準化していってしまう世界が生み出す

窒息感に風穴を開ける「あたらしい文明」としての日本ブランドの提示

ができれば、10年前に「韓国やシンガポール的な戦略」を取らずに(取れずに)グズグズとどっちつかずにやってきた日本だからこそ踏み込んでいけるブルーオーシャン的フロンティアが開けているわけですよ。

そこに一貫した戦略が持てれば、世界中に大量出現している「あたらしい中間層」の、「フェイスブックで友人から一歩差をつけたいニーズ」につけこんで、「やっぱり色々体験して本物志向になっちゃうと、最後は日本製品にたどり着いちゃうよね(その価値がわかる俺ってかっこいい・・・)」需要をあらゆる国から薄く広く大量に取ってくることができる

今の時代、うまくやれば「グローバル中間層の中の、さらに上から順番に数%の日本に物凄く興味ある層と、上から順番に数%の”アップル的デザインを超えて行きたい層”」にだけ選別的に広告を見せて展開していったりできるんですからね。『ここ1年以内に35回以上”SAMURAI”とか”NINJA”とか”ZEN”とか検索したことのある年収10万ドル以上の男女(国籍問わず)』にだけ物凄いリッチな動画コンテンツを広告として見せられたりする時代なんですから。

今の時代の「バイラルマーケティング(ネットでウィルスのように広がる評判を利用したマーケティングのこと)」って、物凄いドロドロにケチャップ味的な”共感の押し売り”みたいになってしまって、ここで言う「日本が本来売るべきもの」が果てしなく抑圧されていく方向になりがちなんですが、本当は逆に発想をかえて「新時代のピンポイントなマーケティングを大会社スケールで乱れ打ちにする戦略」で、「特別なセンスを持つあなただけに」という形で「ザクとは違うのだよ、ザクとは(機動戦士ガンダムのランバ・ラルのセリフ)」的なメッセージの発信を徹底的に追求していかなくちゃいけない状況なんですよね。

そういう「”グローバリズム的最大公約数に押し込められてしまった人類の窒息感”を超える希望となる最先端のハイセンスの世界なんだ」という打ち出しで、「あたらしい文明」を提示できれば、「最もハイセンスな存在」にだけアプローチして、そこからその人達に付いてくるフォロワーを引っ張ってきて大きなムーブメントに育てていくこともできるわけです。

そうやってこそ、「グローバリズム的な大雑把さを徹底拒否して、理解されずとも丁寧に生きようとしてきた日本の過去10年」の「あらゆる”みんなの思い”」をちゃんと世界中に「あたらしい価値」として提示できるようになる。その価値を世界中から換金して持ってくることで、「日常をシッカリ生きている1億人」がちゃんと食っていける余地も生まれる。

この10年でローエンド商品をサムスンや中華メーカーにボコボコにされてる分、かえってブランド的混乱を気にせずに積極的に展開していける状況が整っていると言ってもいい(まあ戦略的整合性が取れるなら、新品が型落ちiPhoneと同等ってぐらいの価格帯には入ってってもいいかもしれないが)。また、性能が高くなりすぎちゃってスマホなんて正直どれでも一緒だよね・・・・ぐらいにまでコモディティ化が進んだ時代だからこそ、「一朝一夕では身につかない最先端デザイン」みたいな差別化が逆に物凄く効いてくる時代が来るはずだとも言える。

そのためには、「1億人のあり方のユニークネス」の延長としての「強み」を、一般論ではない「個別解」として徹底して掘り下げた戦略が必要になってくるんですよ。「代表」と「それを支える無数の人たち」がちゃんと根本的な意味でのシナジー関係になるような、何かの後追いじゃない 一貫した「個別解」の戦略を打ち立てなくては。

そうすれば、「横串の通った戦略性」が全くない魚河岸に転がったマグロの群れ(スティーブ・ジョブズが日系メーカーのパソコンについて言った言葉)みたいな製品を「とにかく売れ」と押し付けられる現地子会社の最前線兵士たちの、

の絵的な状況にも光明が訪れ、やっと日本の「戦争の失敗への反省」に現実レベルでの「社会運営のノウハウ」としての解答を与えることができるようになるでしょう。

もちろん、それには「一般論じゃない個別解」=「そのための特注品の戦略」を共有していくことが必要です。

たとえばこんな感じ↓で。(以下画像三枚クリックで拡大します)

こういうのは、「現場の力は凄いあるけど全体的連携は皆無」的な(多くの)日本の会社の文化で生きておられる方にとっては新鮮さがあるチャートだと思います。

このチャートはもともとはある特定の会社のある特定の商品について作ったものを改造して一般化したものなので、たとえば「入口商品」ってどういうものなのか・・・というような細部がわかりにくいかもしれませんが、その辺は想像力で補っていただきながらちゃんと読んでもらえると、色んな産業の色んな商品に応用できるはずです。(場合によっては”入り口商品”でなく”勝てるタイプの顧客”にフォーカスすることが鍵の業界もあると思います)

もしあなたの会社で応用できそう!と思ったら、この画像をダウンロードして、著作権フリーで使ってくれて構いません。印刷したりタブレットで表示したりして、ぜひお仲間との議論の土台にしていただきたい。(元データでないと細部が読めないと思うので、それぞれクリックして別窓で開いてから保存してください)

こういうフレームワークを元に、特に3枚目の各階段ごとの、「施策ABC」と書いた所などが自分の会社の場合どういうものにあたるだろうか?とあなたの会社で公式あるいは非公式に議論されると、「そういやこの前出てたアイデアはここにあてはまるのか」的に整理されるはずです。

「Aが大事だ派」と「Cが大事だ派」がお互いが敵だと思ってケンカしてたんだけど、実は同じ一連の戦略の2つの「部分」を主張してただけだったよね・・・ってなったりすることもある。(入り口商品になりそうな”アイデア重視”派と、”フラッグシップ機”的なものが好きな人はキャラ的に不倶戴天の敵になりがちなんですが、”もうそういう時代じゃないぜ”vs”うっせー黙ってろ”的な対立を超えて、一貫した戦略でやれば”両輪”になるんだ・・・と思えるといいですね)

体験的にいうと、こういうフレームワークが出せた場合、それぞれの「箱」に入れるべきアイデアは今から新しく考え出すまでもなくすでにその会社内で「何度も提案」されていたりすることが多いです。ただ単発のアイデアではうまく社内で合意形成できなかったり、実行してもコワゴワものすごい低予算しか出さなくて失敗した残骸のようなプロジェクトがホソボソと惰性で続いていたり(一度始めたら今度は辞めない 笑)するんだけど、「こういう全体像のこの部分ですよね!」という合意で「点と点を繋いで線にしていく」とうまく行く可能性が一気に高くなる。

こういうのは、わざとらしく「囲い込むぞ!」って思ってもあんまりうまく行かないことも多いんですが、今の時代それほど消費者側から見て「囲い込まれ感」があるものじゃなくてもスマートに自然に「keep in touch」状態にできるIT的なしくみって沢山ありますからね。そのへん、「線にしていくぞ」という思いと、「中心にある本当の価値」に対する自信さえちゃんと裏付けされた確実なものとして持っていれば、だんだん自然と繋がってくるはずです。

日本の会社は現場が賢い分、末端の末端までゴリゴリと欧米的トップダウンでやろうとしても、「箸の上げ下ろしまで口出されてやってられっか!」みたいなギクシャク感が生まれるんですよね。でもこの調度良い”中間的な抽象度”の「フレームワークレベルのこと」を共有して、「この全体像の流れの中の施策ABCについて全力をあげよう」という 「全体像の意志共有」さえできれば、あとは優秀な現場の人たちが「まだ何も言ってないのに!」というレベルで先に先に意志を具現化してくれてうまく行くことがあります。

最近、日本型ROE重視経営だとか、コーポレート・ガバナンス改革だとかの掛け声が盛んですけど、「本来やったら凄い良いのに合意形成が全然だから困ってたんだよね」という問題について、こういう「フレームワークレベルの合理性の共有」が進むのであれば、むしろ日本経済の起死回生の一歩になるでしょう。

しかし、そういう「下からの合理性を上から権威付ける」形にならずに、ただ「上からの論理を押し付ける中身のない議論」ばかり暴走するようになると、ただなんのビジョンもない自社株買いが横行したりするだけに終わります。金融技術による官製相場のお化粧がハゲた時には日本は本当にシャレにならない酷い状況に陥ることになるでしょう。

もちろん、個別の改革の現場レベルでは常にある程度は「断固とした意志を示す」ことも必要ではありつつ、その「環境」を整備していくためのマクロな文脈として見た時においては、「反発する人たち」を「時代遅れの抵抗勢力」扱いしないことが大事なんですよね。「反発があるということは、”本質的な合理性”からはまだ遠い上滑った論理しか通せてないからなんだ」というような発想にしていかないと。

この問題への解決が「必殺技」的な定型化したパターンに定着できれば、凋落する日本ブランドの大きなムーブメントとしての復権につながる可能性があるんですが、具体化レベルになると私の所のように経済思想家業と二足のわらじで一人でやってるコンサル会社にはビッグイシューすぎるので、各界の賢人の皆さんで協力しあって実現していってほしいなあと切に思ってるんですよ。

そのためには、ネット小売直販やバイラルメディアやSNSマーケティング的なのに強かったり、それぞれの進出先の国に根を張ってビジネスをしていたりというような「現場叩き上げ」的なプレイヤーも、グローバル経済的な論理をシッカリ共有していこうとするプレイヤー(ファンド・外資コンサルファームその他、狭義の”グローバル”な文脈で動いている働き手)も、電通博報堂的な意味での「クリエイティブ」さんたちも、そして、「それら一連の”意識高い系”とある程度隔絶していて、時代の下らない流行に惑わされない日本人の集団的安定感の存在」も、全部等しく必要なんですよね。

で、それぞれの「文化」が他の「文化」を押しつぶしてしまってそのイビツさにあとから復讐されてしまわない形で、日本全体としての「最適な連携」を生み出していくには、ある種の「市場主義」を旗印として動かしていくしかないんですよ。

おそらく、それぞれの「文化」を代表する「伝統的な会社」そのものではなくて、その良さを身につけつつも後に独立して個人でやってる身軽なプレイヤーたちが、ワンテーマごとに「7人の侍」とか「オーシャンズ11・12・13」みたいにうまくチームとして集って「日本の伝統的な大会社」と自由に連携して動けるようになると、日本は一気にスムーズな「全体的戦略」を通せるようになると私は考えています。(そういう連携が生まれてくれば、”個人プレイヤー”が、日本の強みである”集団プレイヤー側”の人間を憎悪してその強みごと解体しようとしがちな幸薄い現状を超えて、お互いの良さを出しあえればいいよねという当たり前のコンセンサスを持てるようにもなるでしょう)

でもどんだけ「みんなのための全体最適的な良いこと」を考えているチームができても、日本の縦割りな大会社の連携の弱さ・・・というのは全く「戦前日本の失敗と全く同じ問題そのもの」的な状態にあるので、そこに「横串を通していく大義名分としての市場主義」っていうのがものすごく重要になってくるんですよね。

そういう「上からの論理と下からの論理をちゃんと引き受けるロジックのありよう」を、日本のビジネスマン間の暗黙知として分厚く共有できるようになってくれば、あとはコーポレート・ガバナンス的な市場メカニズムによる統治によって、「みんなのための良識」が通るようになるし、それにあえて「抵抗」する意味も価値も正当性もないからみんな受け入れようぜ・・・という流れにもなるでしょう。

アトキンソン氏が、「さすがに80歳まで年功序列で果てしなく職人の給料あがっていって、それで若者を正社員にできなくて技術が衰退してったら本末転倒だよね」という決断をくだせたような、「そりゃここに決着するのが当然のフェアなあり方でしょう」というところに、ちゃんとみんなを持っていく大義名分としての「市場主義」の運用を、技術として日本社会が共有できるように持っていくのです。

最近、日本の高級オーディオメーカーが親会社からファンドに切りだされて独立し、身軽さとシッカリした当事者意識を手に入れて世界的に攻勢に出る例が増えていますが、まさに「そういう連携」を増やしていくことが、「日本の密度感」と「グローバルBtoCビジネス」を繋いでいく突破口となるでしょう。

そういう「良識と市場主義の結合」によって一歩ずつ改革が進めば、「抵抗勢力をぶっつぶせ!」的なことを吠えているだけで結局押し戻されてしまう「知恵の輪ができなくてかんしゃくを起こしたバカな怪力男」状態を脱却して日本における「改革」が最後まで進むようになるわけです。

最近、拡大主義で来たホンダがリコールを連発したり、タカタのエアバッグの問題が拡大したりと、ある種の「攻め気」に集中しすぎた日本企業の屋台骨が揺らぐような問題も発生していますからね。

だからといって「守り気」だけになって国内に閉じこもり続けていると、グローバルに本来取り込めるはずだった富の原資が枯渇して、「日本の美点」を守ってる人たちすらさらに根腐れ状態になってくるわけですよね。

だからこそ、「良識ある市場主義の共通了解」を分厚く共有していく中に、ありとあらゆる人の立場をいれこんでいって、それで持って「メッシュが高精細で柔らかく受け止められるサスペンション」をつくることが「さらに一歩でも前に進むための必要最低条件」になっているんですよ。極論が暴走する環境だと、危なっかしくて最初の一歩すら踏み出すことが不可能になる。

そうならないためには、「攻め気」と「守り気」がちゃんとバランスされたままグローバル展開していくことが必要で、そしたら「もうちょっとやってみようか」「いやそれはやりすぎだったな」っていうような揺り戻しを経ながら進んでいかないといけないのは誰しもわかることですよね。

そこで、「開国だ!」「いや鎖国だ!」的な極論同士の争いにならずに、「もうあとほんのちょっと右」「あ、いきすぎ?」「もうちょっとだけ左」と超高精細に一瞬一瞬に微調整が続けられるような形での意思決定文化の共有がないと、危なっかしくて「改革」なんて一歩も進められないわけです。

要するに今までの日本の「改革」は、

この絵↑の左側のように、「アクセル踏んじゃえ!」vs「ブレーキまだ付けてないんですけど!」という子供のケンカだったと言えます(この絵、かなり気に入ってるんですけど・・・これ見たらなぜ今の日本が内向きになってしまっているのか、あるいは”ならざるを得ない状況にあるのか”が一発でわかりますね)。

本当は、絵の右側のように、「ブレーキ付けました。テストも終わってます。じゃあアクセル踏みましょう」にしないといけないんですよね。

4・英国的良識との連携と、日本の人文系の思想家(及び左翼メディア)の可能性が最後の鍵

ところで、アトキンソン氏の活躍を見ていて思い出したんですが、私の最初の著作、『21世紀の薩長同盟を結べ』では、「英国風の物事の見方」と日本は積極的に連携していくべきだ・・・ということをかなりの分量を割いて書いている部分があるんですよ。

前回の記事でも書いたように、アメリカの一極支配の終焉とともに、「あたらしい価値観」を世界は切実に必要としているわけですが、それは二極分化する極論ではない「ど真ん中」の良識を「適温」に 保ってくれるようなものが必要なんですよね。

そして、日本の中にその「次世代の希望」の「卵」自体は確実にあるんですけど、それを「孵化」する時に「日本の中だけの議論」だけで温めると世界的に見て「特殊事例」になりすぎて、理解されなくなっちゃうんですよ。それはどんな立場の人にとっても不幸なことなんですよね。

そこで、「アメリカ的な杓子定規さが嫌だ」からといって、「アンチ・アメリカ」的な感覚だけで、例えば大陸欧州や東アジア諸国やイスラム諸国と強固に繋がっていってしまうと、そういう関係は”気持ちの交流自体が勇気をくれる”というレベルでは凄く大事なんですが、それをより大きな政治経済ムーブメントに転換していこうとすると、「英語世界の完全に整備された世界共有システム」的なものと「完全に敵対」する形で盛り上がっていってしまって、もうファシズム政権ぐらいにならないと前に進めなくなってしまうんですよ(そうならないために、結局”ほんとうはこうなのにねえ”と遠い目で愚痴りあう程度にしかならず、現実的にはさらに果てしないアメリカ追従が世界中で続いてしまうし、アンチ・アメリカのイスラム国的暴走もさらに過激化していくんですよね)。

しかし、英国的な思考様式(イメージ的には”アメリカのシカゴ学派”みたいなゴリ押しじゃない、ダーウィンやアダム・スミスみたいな究極的な抽象度の見通しのあり方)からは、日本と「ある意味凄く遠いけれども理解しあえる」関係を作り出すことで、「日本の中にある次世代の希望の卵」を、「オープンな社会システムと無矛盾に接続する」という、まさにデーヴィッド・アトキンソン氏がやったような転換を生み出していける可能性がある。

そしてそういう連携から生まれたものは、そのまま英語世界へ移植でき、その英語世界の向こうにある「アングロサクソンシステムに溢れんばかりの怨念を抱いている国々」にもちゃんと『希望』として(しかも精緻に組み上げられた現代の世界運営のシステムと噛み合った形で)響いていくことになる。

アトキンソン氏に限らず、ここ数年私が読んだ本でふと思いつくだけでも、ジョセフ・ヒース氏(カナダ人)ジョン・クィギン氏(オーストラリア人)のような、「ドグマに陥らないバランスの取れた見解」を求める英領連邦の人たちの志向性・・・というのは、それと「日本人の奥底の良さ」を表裏一体に貼りあわせられれば「革命の種火」になり得る可能性を秘めていると感じられます。(それを考えると、やはり王室や皇室に対する信頼のありようが、”理屈万能のゴリ押し感”への慎重さを産むよく考えれた社会装置なのだと言えるかもしれません)

そういう方向性の詳細については、『21世紀の薩長同盟を結べ』をお読み頂きたいのですが、ただ、そういう組み合わせを実現していくためには、日本国内の知識人的存在が、幸薄い左・右対立みたいなものを超えてある程度はまとまっていくことが必要になります。

と、言うのも、アメリカ人みたいに形式的原則を押し通して末端でどんなカオスなスラム街が大量に生まれても開き直る・・・ってことが日本にはできないので、「オープンなシステムを入れ込んだ」だけの「良識の共有」っていうのは物凄くキッチリと力をかけてやらなくちゃいけないからです。

アフリカとかの政情不安の国では、選挙があって政権交代があったら毎回内戦が起きるのが普通・・・みたいな国だってあるんですよ。欧米社会だって今のシステムを始めた直後はギロチン祭りに欧州全体と世界中を巻き込む何度もの戦乱に・・・で大変だったわけで、「目指す理想」としてはともかく「それだけ追求すりゃみんな幸せ」なわけがないですからね。

アトキンソン氏は日本のそういう「防衛反応」について結構厳しい言葉を投げておられますけど、イギリスが「良識」を維持してるのは、彼らがある時期以降他民族に征服されたことがなくて、自分のところのお国言葉が世界中に通用する上に、アホみたいに大量に金持ってる世襲貴族が「”良識の維持”自体を仕事」として生きているからだったりするわけなんですよ。(それらの条件において日本は全部壊滅的ですよね)

さらにはそれだけ条件が揃っているイギリスでも、あまりにオープンなシステム原理主義的発想が行き過ぎて現地現物の微妙な差異をなぎ倒してしまう結果、現代世界の紛争の火種をそもそも撒いた国ナンバー1か2と言えるぐらいだし、まあこんな悪口は言いたくないけど、「料理がまずい」とあっちこっちに言われ続ける結果になってるのもそういう原因の「結果」なわけですよね。

君らちょっとニブいとこあるから教えといたるけど、そういうとこが、お隣のフランス人に影で嫌われてたりするとこなんやで。気ぃつけや!

スーパーの寿司や回転寿司もそれはそれで良いものですけど、「おまかせコースしかない大マジな寿司屋さん」って、それとは「別物の素晴らしさ」がやっぱりありますよね。もしあなたが行ったことがなければ、二人で数万円の予算の旅行に行くのを一回諦めてでも、ネットで評判の店を調べて予約して行ってみるといいですよ。それなら学生さんでも年一回の記念日とかならなんとかなる予算ですし。世界観がマジで変わります。

あの「カウンターの向こう側の立ち位置」に対して、下らないアカウンタビリティとか素人消費者のワガママとかが排除された空間が確保されてるのが、やっぱり「残すべき文化」だと私は思います。

だって、所詮消費者は寿司のこと四六時中考えたりしない人間ですからね。でも「寿司職人の世界」において徹底して四六時中それを考えて、千変万化する色んな魚の旬や食べ頃や料理法のほんのちょっとした違いに対して研鑽してる、ライバルの職人に負けてなるものか・・・と常に切磋琢磨している人間がそこにいるんですから、アレルギーで食べられないネタとかがある場合をのぞいて、「”押忍”の精神で出されたものをありがたくいただく」という場になっていることの「社会システムとしての意味」っていうのは物凄くあります。究極的には商売としてやってるわけですから、無意味な独善性に陥っていけばどうせ勝手に排除される一線は守られていますしね。

結局「アングロサクソン的オープンシステム」が世界中で紛争の火種になってるのは、「現地現物のこの豊かさ」を破壊しまくってるからなんだ、と言ってもいいぐらいで。

でもさっき少し書いたように、そういう「思い」だけで例えば日本とフランス人が「共感」ベースで動いていこうとしても、あまりに他の世界との差が広がりすぎて怨念が満ち溢れてくるんですよね。

こんな感じで↓。

「あいつらわかってねーよな!」「ウイー全くその通りですねー」的な感じで盛り上がることは、寿司職人とパティシエが自分の仕事へのガッツを保つための友情としてはとても良いものですけど、それを社会全体に押し広げることの大問題は歴史が証明しているところです。

だからこそ、「ある意味一番遠くて、ある意味一番近い志向」の「英国風に一段高い視点のオープンシステム」と「日本人一億人強が高度に空気を読みながら生きている毎日の生活の総体そのもの」を化学反応させていけば、そこに「アメリカの支配力の退潮を代替するあたらしい基準点」を生み出すことができるわけです。

こういう絵↓の感じでね。(ちょっと上の絵↑とこれ↓の二枚絵も凄い気に入ってるんですよね。ぜひともこういう世界にしたいもんです)

そういう「アメリカのものより高精細なあたらしい世界基準形成プロセス」を日本側で受け止める基盤として、つまり「アングロサクソン的オープンシステム」に「現地現物のリアリティを再解釈して入れ込む役割」として、昔日本はもう少し学歴社会になった方がいいというブログを書いて、そこそこ評判になったことがあります。

ある意味、「学歴なんて下らないよねと安心して言えるぐらいは学歴社会」になってないと、「アメリカ的分断」を回避する良識担保機能が崩壊寸前になって日本は余計に防衛的に引きこもり国家にならざるを得なくなるんですよね。

似たような意味で、多少の経済格差があっても、「一億総中流」を無理して目指すよりは「日本の良さ」を引き出しやすい社会になる可能性はあると私は思っています。

アトキンソン氏が凄い頑張って本来の様式で京町家を修復したのに、ヤンキーっぽい営業マンが来て「潰してマンション建てませんか?」って言われて唖然としたって書いておられましたけど(笑)、そんな感じで単なる「一億総中流」になるとあまりに「大衆化社会」的な暴走をしすぎて、結局また「良識の担保機能」が風前の灯火になってしまうからなんですよね(結果としてまた内向きで消極的になって何かを守り通さなくちゃいけなくなるスパイラルにハマる)。

余談ですが、アメリカ社会があれだけ経済格差を”必要”としているのも同じ理由だと私は考えていて、全世界的なオープンシステムの維持作用に日英的な連携によるより広範囲の人心を巻き込める調和が加われば、あのアメリカの超絶的経済格差が適切なところに落ち着いても人類の共通了解システムは崩壊せずに済むようになる・・・・結果として格差是正は進むでしょう。

そういう問題は「明らかにある」のに、今の時代「ないことになって」しまって両側がゴリ押ししようとするから、現実的に一歩ずつ前に進むってことが不可能になるんですよね。

だからむしろ、アメリカに比べてそれほど中下層と断絶していない「中間層の上」「上層のボリュームゾーン」あたりにいる日本人に、「アメリカの同じ層みたいにあと10倍儲けたりしなくていいから、もっと色んな人との調和の中で納得して儲けられるあり方を模索したい」という分厚い「良識担保機能を担える層の願い」が日本にはあると私は実感していて、「そこ起点のムーブメント」を巻き起こすことで、逆に「中流層の崩壊」もある程度防ぐことが可能になるはずだと私は考えています。

結局、例えばトヨタのこういう領域の良さっていうのは、本当に「世界最高」で、それこそ「オベンキョウができるだけの人間」の本来的機能を超えた独善性が暴走しないように、「色んなタイプの人間の良さ」を世界最先端のパフォーマンスにうまく吸い上げる力を持っている現代社会の希望だし、なんか読んでると私は涙出てくるぐらいなんですけど。

でもこういうのは、「その良さを理解できるレベルに奥行きのある知的さ」を持った人がかなり分厚く存在していないと、「グローバリズムの威を借る狐」によって果てしなく崩壊させられていくんですよ。で、アメリカみたいなスラム街と大富豪が完全分断された希望のない世界にマッシグラになってしまうわけです。

「そこ」だけは絶対に守りぬかなければいけない。それは人類が日本人に信託している砦を守ることでもある。ウソ臭い意識高い系の果てしない暴走によって人間にとって大切な「何か」が崩壊しないための最後の砦がここにあるんですよ。

で、ちょっと話が突然なようですけど、そういう「共有基板」に対するあたらしいビジョンの提示という役割が「人文思想」の世界にいるあなたの役割であるはずなんですよね。「永続敗戦論」界隈(に限りませんけど)にいる人の、本来の能力と意地とプライドを全力で発揮できるフィールドがここにあるはず。

最近、人文系の大学なんて金かけても意味ないからやめちゃおうぜ的なことを言う人が結構出てくるようになって、そういうのについては「何言うてんねんアホか」と私も思うんですが、しかし「人文系の知」が「やるべきことをやってない感」がないかというと物凄くそれは「ある」と思っています。

ここまで「市場っぽい話」ばっかしてますけど、実はここに「人文系の知識人」がやるべきことってメチャクチャ沢山あるんですよ。もう第二次大戦のマンハッタン計画に集まったアメリカの物理学者たち・・・ってぐらいの位置づけの「大事な仕事」があなたがたにはいくらでもあるんですよ!

「英国風のオープンシステムへの信頼」が崩壊しない形式で、「日本の本来の良さ」と「グローバルな流れ」をちゃんと繋いでくれる「あたらしい文明」の定式化がなされないと、日本人は”右傾化”したり”社会の指導層から女性を排除して”それを補完することを続けるしかないし、クールジャパンは結局アニメと漫画と自販機と定刻運行する電車だけってことになる。いやそれもいいけど、日本の良さってそれだけ?って感じじゃないですか。

大企業だけでなく中間層が再度復活する(いわゆる”トリクルダウン”が本当に起きる)ほどまでの巨大な「売り込みムーブメント」をしかけるためには、小手先の金融技術なんかじゃない「人文的な深みまで巻き込んだ思想」が必要で、「あたらしい文明」を規定する「思想」こそが「人を本当に動かすウリ文句」を作るんですよ。

そうやって日本人1億人が根幹的なところで世界代表として大事にしている「何か」の売り方が「最も深い人文知のレベルまで巻き込んだ必殺技」として定着してくれば、右傾化も必要なくなるし、女性の社会進出が進んでも崩壊するものがなくなって女性もいろいろ我慢せずに伸び伸び社会参加できるようになるし、見てて気恥ずかしい感じの「日本礼賛本」とか「凄いぞ日本!的テレビ番組」も、そういうのはちょっと恥ずかしいから辞めようぜってことにできる。

「古い国体」の中から「良い部分」だけを分析的に取り出して明確に対象化することが日本の人文思想や左翼メディアにはできるはずだし、そうすれば「大きく売り込めるムーブメント」になると同時に、「古い国体の良くない部分」だってはじめて排除できるようになるわけです。

今まさに、他の国の人文思想家や左翼メディアにはできない大きな使命が目の前に転がってるんですよ!!

あなたがたが敵視する「右」の人たちや「ガサツな財界人たち」に対して、「てめーらにはこんなことできまい!」と鼻をあかしてやれるような、エレガントかつ華麗な論理展開を駆使して、「日本の中にある”あの部分”」さえキッチリと欧米人にわかるロジックで正当評価できる論陣を張ってくれれば、日本中があなたがたに感謝して、「人文系の学問にも予算つけなきゃね」って誰しもが思うようになりますよ。

そりゃね、弥生時代の古墳の分布とか、源氏物語の時代考証とかにだって全人生を捧げる人間がちゃんといてくれないと困るっていうレベルの話はありますけど、でも分野的に「今の課題」に真剣に取り組む必要がある、それでこそ輝く・・・っていう分野だって沢山あるはずじゃないですか。

20世紀のある時期に、フランスの思想家群が世界中の圧倒的スターであれたような、そういう活躍ができるはずの「目の前の課題」があるのに、やってないからバッシングもされるんですよ。

今まさに世界最先端の課題に取り組めるチャンスがあるのに、小さなサークルの中に引きこもって欧米の人工的な基準の惰性的な延長で「日本の自然性」を裁いて悦にいる・・・みたいなことを続けてるのはぜひともなんとかしていただきたい。こういう問題については、『日本がアメリカに勝つ方法』の中に、人文思想なんかに全然興味ない読者からしたら「なんでこんなに?」って眉をひそめられるぐらい触れてあるんでぜひ読んでください。

私のように経済分野にいる人間が片手間にやってるようなのだとどうしてもアマチュア的に「方向を示す」ぐらいしかできないですからね。「その先」を「本式のアカデミズム」ベースでしっかり構築していってくれる人が(まあこういうのは人文系アカデミズム世界の中でも結局はハグレモノの仕事なんでしょうが)出てきてくれないと!とずっと思っているので、この経済世界から人文世界へ向かって「暗闇に延々投げ続けてるパス」を誰か受け取ってください。お願いします。

結局、安倍政権の強さは、「20世紀的な左翼性の無責任さの裏返し」みたいなところがあるんですよね。あまりにもメッシュが粗い議論ばっかりしているから、「現実的に受け止める」には、菅官房長官みたいなコワモテにいてもらわないと危なっかしくてかなわんよね!ってことになる。

だから、今回の選挙結果に不満で、安倍政権の「右傾化」を懸念してるというようなタイプのあなたには、「なぜ彼らがどうしてもその道を行きたがっているのか」について「敬意を払って理解する」姿勢が必要なんですよ。

そうすると、彼らが「やらせはせん、やらせはせんぞぉ!(機動戦士ガンダムのドズル・ザビのセリフ)」的に守っているものが、グローバリズム世界における「果てしない両極への分断を土俵際で守り通そうとする必死の免疫反応みたいなもの」なんだと理解できる。

彼らの「右傾化」が、「左」の人間の議論があまりにメッシュの粗い議論しか持てていないことの裏返しであることも理解できるようになる。

もっと言えば、戦争終結時に当時の日本の指導者層がなぜあそこまで「國體護持」にこだわったのか。そして当時の日本人の多くがその決定を支持したのか。確かにそれは現代的価値観からすると「道義的に問題ある」かのように見えるかもしれない。しかしそれでもなお、そういう「決断をした」という日本人の集合意志が「どうしても守り通したいと思っていたもの」は一体なんだったのか。

そう考えると、そこには「この世界の現在のメジャーな価値基準で言えばどうしようもない悪人扱いされてでも、 彼らが人類代表としてどうしても守りぬかないといけないと思っている大事な何か」があったりするんですよ。

「そこに敬意を払って理解する」ことが、20世紀的な左翼に今必要とされていることなんですよね。

そして、「理解してこそ理解される」という言葉がありますけど、「彼らが守りたかったもの」を別の形で実現できる目算さえ生み出せれば、明日にだって「古い国体」はポイー!ってやっちゃうのが日本人なわけですよ。その本能を信じましょう。

それに、以前このブログ記事で書いたように、「そこにあるネジレ」は、韓国人や中国人も毎日痛切に感じている『悲しきエイジアンボーイズの悲願』として直接共有できるものなんで、あいつが悪いこいつが悪いとか非難しあい続けるようなのじゃない、もっと直接的に東アジアの新時代の平和の起点だってここから生まれてくるわけですよ。

結局、「古い国体」=「無責任の体系」に参加しているのは自民党政治家と官僚と財界人だけじゃないんですよ。ありとあらゆる日本人が、いろんなものを押し付けあった結果としてどこかの誰かに苦難が押し付けられてしまうのが「古い国体」なんですからね。

「あたらしい国体」を準備して、そこに乗り換える情勢を作れたら、「古い国体」に対する倫理的問題を、思うさまボッコボコに追求してくれて構いません。しかし先にやることがあるはずですよね。

それができないうちは、「彼らが必死に護持してきたもの」の人類的役割分担の可能性・・・によって、あなた方の「改革」は常に跳ね返され続けることになるでしょう。

最後になりましたが、この記事に「今までにない可能性」を感じられたら、ぜひ12月4日に出た私の最新作、『「アメリカの時代」の終焉に、生まれ変わる日本』をお読みくださればと思います。

また、単純で一方向的すぎる議論があふれるこの世界の風潮に騙されずに、この記事の価値が理解でき、長い記事をここまで読み通したあなたこそが日本の「転回の起点」となると思っているので、あなたの周りにおられる「わかりあえる相手」とこの記事を共有していただければと思います。あなたの「1フェイスブックいいね!」「1リツイート」「1わかりあえるレベルの親友や仲間へのメールやLINE等でのシェア」をお待ちしております。

今後も、こういうブログ記事は続いていく予定ですが、最近は私も忙しくなってしまって、そうしょっちゅうはアップできないので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
・公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
・ツイッター→@keizokuramoto
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