おいしい資産運用

2014年12月24日 11:30

資産運用は、板前の技ではあるまい。お金は、味がなく、量が問題だからである。しかし、お金の量だけが問題なのか。資産運用に、味はあり得ないのか。味があるからこそ、投資哲学というようなことが語られるのではないのか。


食事は、社会的必要性からみれば、一定のカロリーなり栄養価なりの摂取であり、量が問題である。しかし、同時に、食事は、娯楽であり、文化だ。量では測れない味が重要なのだ。故に、板前は、自分の得意な専門分野における高度な技術で、いわば芸術的な技で勝負できるのだ。

病院や学校の給食では、カロリーなり栄養価なりの量的な制御がなされていることが大事だ。しかし、同時に、味を問題にしていないわけではない。むしろ、一定以上のおいしさを条件として、栄養の組み合わせを実現するところに、科学を超えた技術があるはずである。

資産運用は、おいしさを備えた栄養学ではないのか。板前の技の芸術的側面にではなく、味への配慮を条件として科学的な栄養の組み合わせを実現する栄養士の技術的側面に、資産運用の技術につながるものをみるべきではないのか。では、資産運用の味、おいしさとは何か。

食事が栄養だけの問題ではなくて、おいしくなくてはいけないのは、なぜか。それは、生活の重要な一部であり、生きている限り果てしなく反復される行為だからであろう。生きるための食事だからこそ、生きることを超えた生きがい、楽しみ、味わいが必要なのである。そもそも、人として生きることは、生物的生存を超えているのである。

ならば、資産運用が生活の重要な一部である限りにおいて、味が求められるのではないのか。逆にいえば、資産運用が生活の重要な一部として認知されない限り、そこに味は求められないということであろう。

一般に、年金基金等の社会的責務を負う投資家においては、資産運用は、社会生活の重要な一部であり、債務と均衡する投資収益の稼得という量的条件のもと、必要収益の充足という投資の科学が必須となる。しかし、同時に、そこには、各投資家固有の投資に対する基本姿勢として、哲学的な味も必要なのだ。ここには、給食における栄養と味の均衡と同じものがあるのだ。

ならば、個人投資家おいては、どうか。資産運用が生活の一部であるのならば、それは、どのような意味においてなのか。運用収益で現在の生活資金を獲得するという意味、あるいは、射幸心を満足させるような投機的娯楽という意味ならば、わかりやすいのだ。問題なのは、将来の、特に老後の生活原資の形成としての貯蓄である。

若い人にとっては、老後貯蓄は、到底、今の生活の一部とはなり得ず、既に、老後に達している人とっては、現在の年金制度が機能している限り、やはり、生活の一部ではなくて、単なる余剰であろう。故に、このような貯蓄には、味がないだけでなく、必要性の認識もないが故に、栄養学としての科学もないのだ。

おそらくは、おいしく食べることの先にしか、栄養学はないのである。おしくない金融商品、単なる栄養価の錠剤にすぎない金融商品、品質保証のない金融商品の横行が、個人の資産運用を貧しいものにしているのである。しかし、こうした状況は、味のわからない投資家自身が作り出したものでもある。

どうしたら、将来の生活原資の形成が、今の生活の一部として確立するのか。それは、投資教育というような方法を通じてではない。そもそも、資産運用だけの問題ではない。総合的な生活の問題である。当然ではあるが、おいしい生活のなかに、おいしい食事と健康、おいしい資産運用と老後の経済があるのだ。

おいしく食べるように、おいしく資産運用できないのか。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
twitter:nmorimoto_HC
facebook:森本紀行

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