敗戦という歴史から学ぶために --- 後藤 身延

アゴラ

今年は終戦から70年にあたり、天皇陛下は年頭所信では、「歴史に十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。」と結んでいます。近年の日本を取り巻く政治的、経済的情勢は、一元的な思考や一方的な視点で捉えることが難しい情勢となっています。昨年、ウクライナを巡るロシアの動きは新たな米露冷戦への発展が危惧され、中東では国を超えたイスラム国の台頭が中東情勢を更に複雑なものにしています。


また、経済的には、中国をはじめとする新興国の経済成長には陰りがでて、世界経済を主導する国や経済圏が見当たらない情勢で、その中で、米国、EU、そして日本は金融緩和政策を駆使して、経済成長を維持拡大させるという状況が続いています。日本では、デフレ経済からの脱却すべく政策を打ち出してはいるものの、それは根源的な問題解決策ではなく、対処療法的な政策であり、その結果には不安なものがあります。

このような情勢でできること或いはしなければならないことは、やはり冷静且つ客観的に歴史を見直し、そこから学ぶことであると考えます。このとき、注意すべきは歴史に学ぶための史実へのアプローチ、つまり、結果を生んだ歴史的背景への考察や結果を導いたプロセスやその仕組みを分析するということではないかと思います。

先の戦争、第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争、事変を含めた昭和初期の戦争、どんな尺度、言い方をもってしても、昭和20年8月に敗戦で終わっています。そして、この戦争は、敗戦という結果のみならず、国民及び戦場となったアジア諸国の人々に大きな犠牲を強いたという意味においても、日本にとっては深く反省すべき結果、史実です。では、この歴史をどの視点で教訓とすればよいでしょうか。

まず、敗戦という結果自体を考えます。なぜ戦争に負けたのかということについては、様々な角度、視点から、それぞれの置かれた立場から検証され、直接的、間接的または根幹的、局所的にその要因が挙げられていますが、総じていうなら、第1次世界大戦以降の近代戦(戦車や航空機、潜水艦などの新兵器を使用して従来にない戦争の形態)における総力戦での敗北と云えます。産業革命以降の科学技術の進歩と工業化は、戦争の形態を変える新兵器を生み出すとともに、それら兵器を大量に生産し且つ戦場まで迅速に運ぶことを可能にしました。そして、戦争の形態を旧来の兵士同士の局所的決戦の形から、兵器を生産する工業産業からその円滑な運用のための組織まで、国全体の総合力、持てる力をすべて投入する総力戦に変えています。

つまり、第2次世界大戦は、政治経済、資源、国民意識などの国の総合力の戦いでした。そして、日本の敗戦は米国をはじめとした連合国の総合力で劣っていたことがもっとも大きな要因だったと云えます。戦略・戦術上のミスや情報戦での能力、技術的な要因、人的要因など様々なことが敗因として挙げられていますが、それらをすべて包括した国力の差が歴然であったということです。ヘレン・ミアーズが戦後間もない頃に書いた「アメリカの鏡・日本」の中で、「ゼロ戦が人命を軽視したような装甲の機体であったのは、人命軽視を意図したのではなく、十分な装甲の機体にするほどの資源がなかったためである。」として、日本と米国の国力の差を表わしています。

では、歴然とした国力の差があったにも係らず、米国を相手に戦争をしたのでしょうか。一般的に東京裁判の結果から、軍部、陸軍、特に関東軍の暴走とそれを止められず、更にはそれに加担した政治体制が問題視され、戦争開始、遂行の責任が問われ、論じられてきました。しかし、近年、様々な記録等から陸軍の暴走という単眼的見方から海軍も含めた軍部の責任、当時の政治体制や天皇陛下の責任まで、多角的にその責任を考えるという方向性にあります。無謀な戦争開始または遂行の責任論は、敗北の要因を探るのと同様に直接的、間接的または根幹的、局所的に検証され論じられています。この責任論を一つ一つ紐解き、検証し、追及することは非常に時間のかかる作業であると同時に一元的な結論を出すのは難しい課題であると思います。

しかしながら、歴史に学ぶという命題においては、大いに議論すべきことであると考えます。そして、その議論においては、戦争の責任を一定の人や組織(軍部や政府)に帰するものとするのではなく、誤った判断をした組織体制やその判断にいたるプロセスや背景を明らかにして歴史の教訓とすべきではないでしょうか。仮に戦争の責任が軍部の暴走を主要な要因とするなら、なぜ、暴走を止められるような対抗組織や牽制できる仕組みが機能しなかったのか。政府、マスコミ、民意ではどうにもならない国としての組織構造に問題があったのかどうか。

このように考えると日本の国の統治システム、国全体の組織機構に大きな課題があったと考えられます。また、日本の国としての総意、認識が未熟であったことが、明治維新以降に取り入れた西欧社会の組織機構をうまく運用できなかったのではないでしょうか。先述の「アメリカの鏡・日本」では、「日本は西欧社会・文化を学んだ優等生であり、その手法を忠実に学んだ結果が、大陸への進出という形に表れたものであり、アメリカは自身の鏡のような国、日本を批判することができるのかどうか。」としていますが、日本内部からみるなら、前進の手法は学んだものの、立ち止まって分析したり、場合によっては後退するという手法やそれを可能にする社会システムを学びきれなかった或いは自らの中に取り入れきれなかったと云えます。

どんな国、社会、組織においても、前進を云う勢力の大きな声の前では、一見消極的で慎重な意見は、掻き消されてしまう傾向にあります。だからこそ、そこに小さな声の慎重な意見を耳を傾ける組織構造、システムが必要であると思います。
 
後藤 身延
会社員