英首相は「言論の自由」根本主義者? --- 長谷川 良

アゴラ

ワシントン発時事によると、「キャメロン英首相は1月18日に放送された米CBSテレビのインタビューで、フランスの風刺画週刊紙シャルリーエブドがイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに関し、『自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する』と述べた」という。これはローマ法王フランシスコが「言論の自由にも制限がある」と語ったことへの反論と受け取られている。


キャメロン首相は、どのような宗教、その指導者も風刺できる「言論の自由」があるだけではなく、その宗教的感情も害する権利があると主張しているわけだ。英国メディアは王室関係者、政治家まで自由に批判し、時にはきつい風刺記事も書く。それに対し、風刺の対象になった関係者はメディアを訴えることができるし、必要なら法的手段に出ることも可能だ。メディア側と対象となった側の両者にはその内容が問題の場合、対応手段があるわけだ。

だから、「どうして他者の宗教的感情を害することは許されないのか」という疑問をキャメロン首相は抱えているわけだ。王室や政治家のスキャンダルを書く自由を認めるのならば、どうして他者の宗教的感情を害する「言論の自由」を認めないのか、という問題だ。

当方はフランシスコ法王の弁護人ではないが、なぜ他者の宗教的感情を害することは「言論の自由」ではないかについて考えてみた。宗教的感情はその信仰を有している人間の非常に主観的な世界だ。その感情を測量で測ることはできないし、法廷で説明することも難しい。「私の宗教的感情はあなたの風刺で何パーセント傷つきました」とは主張できない。穿った見方をすれば、傷ついてはいなくても、そのように装って好ましくない風刺を抑えこむこともできる。本人以外、その被害度を証明できないし、ひょっとしたら、本人もできないだろう。

当方はこのコラム欄で「改宗した難民へ“信仰テスト”を実施」というタイトルの記事を書いたが、難民が本当にイスラム教からキリスト教へ改宗したかどうかを限りられた時間で判断することは至難の業だ。ほぼ不可能と言ってもいいだろう。ましてや、その宗教的感情となれば、雲をつかむよう内容で理解できにくい。それゆえに、宗教的感情を害する「言論の自由」は自制しようといった、一種の“ジェントルマン協定”が出てくるわけだ。

もちろん、宗教の教義や聖職者の言動に対し、自由に批判できるし、糾弾も許されている。神学論争は今も昔も認められていることだ。当方はこのコラム欄で何度もローマ・カトリック教会の聖職者の未成年者への性的虐待事件を書いてきたし、聖職者のスキャンダルも報じてきた。それらは事実関係が明確である限り、「言論の自由」が許す範囲と思うからだ。

キャメロン首相が、他者の宗教的感情を害し、自由に風刺できると考えているとすれば、同首相は「言論の自由」の根本主義者と言わざるを得ない。如何なる自由も制限があるし、越えてはならない領域がある。その一つは、他者の宗教的感情への一方的な攻撃だ。

宗教的感情だけを特権扱いすべきではない、と反論されるかもしれない。しかし、考えてほしい。何らかの宗教を信じる人は心の中にその祭壇を持っているようなものだ。そして、その信仰的感情を害するという行為は、その人の心の祭壇を土足で踏むような行為に匹敵する。ペンはその人の聖域まで侵入してはならないのだ。

シャルリーエブド最新号は世界のイスラム教国で怒りと憤慨をもたらしている。既に同紙本社テロ事件よりも多くの死傷者を出しているのだ。だから、宗教的感情を尊重すべきだ、と強調したいのではない。他者の宗教的感情を害した場合、どのような反応が生まれてくるか、加害者側も予想できないからだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年1月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。