「自己責任」という戒めの言葉 --- 井本 省吾

アゴラ

伊東乾氏がJBプレスで「『イスラム国へ行った人は自己責任』に潜む大問題」と題し、過激派テロ集団「イスラム国」によって殺害された後藤健二氏の行動を「自己責任だ」と指摘する見方を批判している。
 

渡航は危ない、と指摘されながら、それでもあえて出て行く人の決意や勇気は、チキンハートで尻込みしたような連中が「ジコセキニン」とか寝言を言うようなものではないということ。

ただただ頭が下がるの一語に尽きるものであること

なぜか。伊東氏は書いている。

身の危険を顧みず、戦闘地域に入って取材する従軍記者、カメラマンなどの職業があります。彼らは自己の判断においてそうした仕事に就き、私たちが行くことのできない危険な地域の1次情報をもたらしてくれます。
それらの情報は、様々な判断を下すうえで時に決定的な意味を持ちます。情報であれば報道ですが、諜報であればスパイ、捕まれば命はありません。
そういう仕事は「自己責任」で行われるものなのでしょうか?

一方で、元新聞記者の杉浦正章氏はブログでこう書いている。

銃を乱発する立てこもり事件で張られた規制線を突破して、記者やカメラマンが取材活動をしようとすれば「取材の自由」などと言っていられない。警官は当然制止する

その制止を振り切って取材しようという人間は、救出されなかったとしても「それは自己責任でしょう」と言われても仕方がない、というわけだ。

私は杉浦氏の意見に同調する。もちろん政府が「自己責任だ」と言って、拉致被害者を救出しなくても良いといっているのではない。政府の救出努力は当然の責務である。

だが、最大限努力しも救出できないことがある。それはあきらめてもらうしかない。危険地帯と思われていない地域に観光旅行した日本人が強盗団や過激派に拉致され、救出できなかった場合でもそうである。まして後藤氏のように「危険地域だから渡航しないように」と外務省から再三警告されていた人間ならば、なおのことだ。その際、使われるのが「だから、危ないと言ったでしょ。自己責任です」という言葉なのだ。

多くの日本国民はそういう意味で「自己責任」を使っていると思う。
 
私も後藤健二氏の行動が無責任だとは思っていない。記者として中東の戦闘地域で何が起こっているのか、重要な情報をつかみたいという姿勢は評価している。

後藤氏は先に「イスラム国」の拘束されて殺害された湯川遙菜氏を救出する目的もあって渡航したといわれる。その意思も立派である。ただ、それは実現の可能性との比較において、という条件がつく。できもしないのに自身の力量を過信して危険地帯に飛び込んで行けば、不注意と言われても仕方がない。

後藤氏自身、以上の問題を自覚した行動していたようだ。「これからイスラム国の支配地域に入ろうと思う。全ての責任は自分にある」と潔いビデオメッセージを知人に託している。覚悟の上での行動は胸に響くものがある。

後藤氏の夫人は後藤氏の死後、「大きな喪失感の中で、紛争地域の人々の窮状をリポートした夫に今でも大変な誇りを持ち続けています」と発言している。

心から哀悼の意を表したい。

国民が拉致されたり、様々な遭難事故にあえば、政府がその救出に全力を尽くすのは当然であり、大半の国民はそれを支持している。だが、救出には多大の労力と資金(税金)を要する。それらを医療、介護、生活保護、震災地の支援に回せば、多くの国民を助ける。

だからこそ、政府、というよりも他の国民に迷惑をかけないよう、外国に出かけたり、冬山や海など危険な地域に足を踏み入れる場合、注意深い行動をとらねばならない。自己責任で行動せよとは健全な戒めの言葉なのである。


編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年2月11日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。