最高裁判決から学ぶ「言葉の怖さ」 --- 長谷川 良

アゴラ

読売新聞電子版は26日、「職場で女性に性的な発言をしたとして出勤停止の懲戒処分を受けた男性2人が、会社を相手取って処分の無効を求めた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷は26日、無効を認めた2審・大阪高裁判決を破棄する判決を言い渡した」と報じた。


最高裁の判決は「言葉のセクハラ」も暴力と同様、相手を傷つけるという判断を下したわけだ。暴力はその時、相手に痛みを与えるが、時間の経過で治癒できるが、言葉の傷は一生、それを受けた人の心にしこりとして残ることが多い。イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」(「マタイによる福音書」第15章)と指摘し、「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」と説明し、口から出る言葉の怖さを警告している。最高裁の判決はその意味で妥当だ。

身近な例を見ても、言葉による争いが多い。夫婦喧嘩も暴力によるというより、一方の不注意な言葉が相手を傷つけた結果というケースが多いのではないか。「あの時、あなたはこういったわね」と妻が数年前の夫の言葉を正確に覚えていた、という体験をした夫も多いだろう。言葉の暴力が如何に相手の人格まで傷つけるかが分かる。一方、物理的暴力が相手の人格まで傷つけたという話はあまり聞かない。

ただし、今回の最高裁の判決で問題がないわけではないだろう。言葉による暴力が相手にどれだけの傷を与えたかを数字で測量できないからだ。どうしても傷ついた被害者側の主観的な感受性が大きな影響を与える。時には、被害の実証が難しいこともあるだろう。感受性や性格の違いで同じ言葉も軽いジャブだったり、ボディーブロー(BodyBlow)となる場合だってあるからだ。“この言葉を発すれば、これだけ相手を傷つけます”といったスタンダート化はできない。

言葉は時代、その状況、発する人などさまざまな要因が絡む。特に、女性への性的発言の場合、男性が女性の心を理解できないといった状況も出てくるだろう。言葉は性差によってその影響も異なる。ジェンダーフリー運動が進んだとしても、同じ言葉でも男性と女性では全く違う捉え方があるという事実は変わらないからだ。

新約聖書の「ヨハネによる福音書」第1章には「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった全ては言葉から始まったという」という有名な聖句がある。この言葉はロゴスを意味する。その意味で、われわれはロゴスによって創造されたというわけだ。だから、言葉を制する人は世界を制することができる一方、逆に、正しい、適切な言葉を発することができない場合、相手を傷つけ、自身も傷つくことになる。

最高裁の判決は「性的発言」に対してだが、私たちが日々発する言葉に対しても同じことがいえるわけだ。相手を思い、相手のための言葉を見つけ出す訓練が必要だろう。

われわれは関係存在だ。他者との関係がなくしては存在できない。だからコミュニケーションが不可欠だ。巷には言葉が氾濫しているが、正しい言葉を適切に表現できる訓練をしたいものだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年2月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。