とあるニュースキュレーションサービスでの出来事について

青木 勇気

昨日、TwitterのTLである記事が炎上していると知り、読んでみた。人材・キャリア領域で活躍する評論家・コラムニストTさんの、某経済系サイトの冠コーナーにおけるインタビュー記事だ。


結論から言うと、炎上と言えるほどのものではなく、内容もドラマのプロデューサーに、登場人物のキャラ設定やストーリーを通して伝えたいことを聞く、自らの主義主張全開の記事というよりは、広告寄りのものだった。

「あいかわらずこのサイトはページ送りが多いな、これなら3ページくらいでいいだろ」、などと全く別のところでツッコミを入れたいくらい、炎上要素を感じなかった。強いて言えば、随所にある対象に対して「ウザい」と連発していたのが良くなかったのかもしれない。

Tさんは、ある経済系ニュースキュレーションサービスでのコメント欄でdisられていること、その内容があまりにも的外れであることに言及していたが、「この記事を読んでそう感じるか?」という意味合いにおいて同感だった。ちゃんと読んでコメントしてる? 読んでないでdisってるんだとしたら、それはただの個人攻撃だよね?と思うのも無理はない。

とはいえ、あらゆる文章は誤配される運命にあり、ある言葉の定義が意図するものと真逆に捉えられたり、読み手自身が批判されているように感じて嫌な気持ちにさせてしまうこともある。つまりは、よくあることである。それが嫌なら書く(読む)のをやめよう。現場からは以上。

…と終わるわけにはいかないので、それこそ炎上しやすいのだが、これまでも何度も語られてきた「不毛な議論」と思われる、書き手と読み手の関係について改めて書こうと思う。

■ 物書きはそもそも不利な立場にある

まず、物書きというのはそもそも不利である。どういうことかというと、日本語で文章を書くこと自体は、特殊能力でも専門家のスキルでもなんでもない一般教養であり、一見すると「誰でもできること」だからだ。さらに、ある文章を読み、それについて何らかのコメントを寄せることは非常にハードルが低い。

これが、絵画や音楽などの領域だったらどうだろうか。感想を言うのは簡単だし、当然中には否定的なものもある。ただ一般に、余程専門的な知識や強い思い入れがない限りは、評価する、批評することは避けるのではないだろうか。つまりは、disるハードルが高いということだ。

念のため誤解がないように言うと、いわゆる芸術と呼ばれるレベルのものと、ネット上の記事を同列視しているわけではない。論点は、自分ができること、やったことがあることか否かが、批評や評論のハードルの高さを決めるということである。

たとえば、ギターを触れたこともない人は、おそらくギタリストの演奏をdisることはないだろうし、少なくとも演奏を聞いてもいないのにイマイチだね、このギタリストは才能ないわと言ったりはしない。純粋に、自分にできないことだからだ。だが、文章に関してはそうではない。場合によっては、記事を読みもせず、批判をしたり、ネガティブなコメントを添えてSNSで拡散させたりする。

私は基本的に、絵描きも音楽かも文筆家も「表現者」という意味では同様であると思っている。(一旦は、村上春樹と自分を一緒にするなよ、この野郎。といったツッコミを控えて読み進めていただきたい)だから、文章を書くことを生業にしている人々を尊敬しろとは言わないが、したり顔で玉石混交だなんだと評論したり、誰でもできることをやっているという目で見るのはおかしな話だと言いたい。少なくとも、自分ができないことをやっている人と捉えてほしい。

Tさんの話に戻すと、専門領域で何十冊も本を書いているプロの作家である。当たり前のことだが、商業出版というのはニーズがないもの、売れないものは取り扱わない。絵や音楽で生計を立てている人と同じで、消費者ができないことをやっている人である。このことを前提にするか否かが大切なのではないだろうか。本を読んだり、文章を書いたりしたことがない人はいないが、お金をもらって文章を書いている人は少ない。単純な話だ。

それにもかかわらず文筆家は、誰にでもできることを偉そうにやっていると思われる。だから、今回のような「よくある話」で傷付き、後味の悪い結果を招くのである。

■ 自分の身に置き換えてみれば簡単なこと

では、どうすればいいのか。子どもの頃、「自分がされて嫌なことは人にもするな」といったお叱りを親や先生から受けたことがある人は多いと思う。実は、このレベルである程度解決する話なのだ。

あるシンクタンクのリサーチャーの方が、Tさんの批判に対する反論記事に対し、書き手は「ちゃんと読め」で終わらず「なぜ伝わらなかったのか」「なぜちゃんと読んでくれなかったのか」「なぜちゃんと読んでない人に批判的な意見を表明させてしまったのか」と考え直した方が良いのでは、といったことをコメントしていた。正直なところ過剰な要求だと思うが、この発言の是非は問わず、立場を逆にして見てみることにしよう。

仮に、この方が記事を読まずにコメントしたのだとしたら、それはこの方が勤めるシンクタンクのサービス内容やリサーチャーとしての仕事も知らずに、あそこの分析レポートはショボいと言ったり、あのリサーチャーは市場を完全に読み違えていると酷評している人と同じ振る舞いをしていることになる。それでも、お前に何がわかる?と思うことなく、なぜそう思われるのかを考え直すのだろうか。その発言があるサイトで一定の支持を得てさえいれば、ちゃんと読まれていなくても受け止めるべきだと。

仕事を持つ人は、誰もがある領域の専門家であり、少なからずそこにプライドを持ち、無闇に批判されたくないと思っているはずだ。今回の件は、書き手と読み手どちらが偉いかといった話やサービス事業者の編集方針云々の話ではなく、書き手がdisられているとき、それは自分が誇りを持って取り組む仕事やテーマを踏みにじられることとイコールなわけだが、自分の身に置き換えてみたらどうか、という話なのである。

私も、某言論系サイトのコメント欄における罵詈雑言や根も葉もないレッテルで嫌な思いをしたことがあるし、反論してさらなる炎上を呼び込んだこともある。一億総評論家時代の到来などと言われて久しいが、プラットフォームができただけで簡単に評論家になれるわけがないことはよくわかっている。

評論家だろうが、文筆家だろうが、シンクタンクのリサーチャーだろうが、その道のプロになるためには、それで生計を立てるためには、相応の経験とスキル、それを鍛えるトレーニングが必要で、誰もができるわけではない。

「ライターになるのなんて資格いらないし、こんなレベルなら書けるけどならないだけ」という人がいたら、私はこう答えるだろう。「書かないのではなく、それは“書けない”ということなんですよ。現に商業ベースで書いていないわけですから」と。

こんな当たり前の前提が崩れてしまい「よくある話」になっていることがおかしいのであって、ネット上だから、リアルなビジネスの現場では、などと条件付きで話すのではなく、まずは自分の身に置き換えて考えてみればいいのだ。それでも、同じことを言うだろうかと。

青木 勇気
@totti81

※バイアスがかかることを避けるため、最後まで誰の何の話か明言することを控えましたが、背景を知りたい方はこちらをご覧ください。

「NEWS PICKSが嫌いになってしまった このサービスにネットでの議論なんて無理である」