都構想4:藤井はん、力付かん内に派手言わんといて!

北村 隆司

藤井教授のホームページを覗くと、その序文にこう書いてある。

“このホームページは、「大阪都構想」の問題を皆さんと共に「考え」るためのものです。
考える視点は二つ。
一つはもちろん、「都構想」の実態や真相について。学者としての見解を発信し、様々な人々に「考える」契機を提供することを企図しています。
もう一つは、「真っ当な議論の在り方」について。民主社会ではもちろん、公権力者による反論封じ、言論封殺は許されざるもの。(詭弁を源泉とする)そんな「圧力」の構造を冷静に把握し、屈せず「考え、発言する」ことの大切さを考え続けます。
本HPが、「都構想」について自由な議論を喚起、促進し、適切な住民理解、住民判断が促されますことを、心から祈念致します。
藤井 聡”

藤井教授の奨める、「考え」て「議論」し「発言」する事は、民主社会の発展に欠く事の出来ない「批判的思考」を磨く為にも、極めて重要な事で、大いに賛成である。


ところが、「このHPは『大阪都構想』」の問題を皆さんと共に考えるためのものです。」と言うHPの主旨とは大違いで、実際は「第一に学者としての見解に基つき『都構想』の実態や真相を明らかにし、第二は都構想提唱者の『詭弁を源泉とする公権力者による言論封殺と言う圧力構造』を国民が把握する」と言う二つの視点から『都構想』を理解、判断する事が適切だと自説のPRを目的としたHPであった。

しかも、「皆さんと共に考える筈の『大阪都構想』」の原文は、HPの何処を探しても見つからず、出て来るのは「学者としての見解に基ついた『都構想』の実態や真相」と称する藤井教授の自説ばかりで、誠に不公正である。

この種の商法は、「羊頭狗肉」と言うのが普通である。

「大阪都構想」は大阪の将来を左右する重要な課題であるだけに、批判や論議は多いほど良いが、嘘、誤魔化しは禁手である。

憤慨するのは、「国民としての言論の自由」「学者としての学問と表現の自由」「評論家(報道)としての報道の自由」の特権を悪用して、公正な批判から逃れようとする姦計で、藤井教授が「内閣参与」と言う公権力側に立つ事を考えると、「京都大学教授」と言うのは仮の姿で、本当の姿は、北朝鮮の「狂徒大学教授」ではないかと思うくらいの詐欺的行為である。

「森羅万象学専攻」の藤井教授と違い、市井の一老人に過ぎない筆者は、Wikipediaの助けを借りて「批判」と「批判的思考」の意味を探っててみた。

Wikipediaを使った理由は、Wikipediaは世に開かれた透明な事典であり、藤井教授が不満であればその内容に異議を申し立てる事が出来る事から、クレーマーとしての藤井教授から身を守るには最適だと考えたからである。

そのWikipediaによれば、「批判」とは「否定や非難とは異なり情報を分析、吟味して取り入れることを指し、客観的把握をベースとした正確な理解が必要である。批判は元々否定や非難という意味を持たない。」と言う。

次に、「批判的思考」とは何を意味するのであろうか?
批判的思考には:
1. 問いをたてる。2. 問題を定義する。3. 根拠を検討する。4. バイアスや前提を分析する。5. 感情的な推論(「自分がそう思うから真実である」と言う論法)を避ける。6. 過度の単純化はしない。7. 他の解釈を考慮する。8. 不確実さに堪える。

と言うプロセスを辿る事が重要で、更に「利用可能なもの、最初に思いついた答えに固執しない。あまりに早く一般化しない。楽な解決に固執しない。最初の答えに合致するような決定に固執しない。一部の利用可能なアイデアや前提の検討だけに終始しない。感情的にならない。もともともっている考えに固執せずに、オープンになること」等の自制心が欠かせないとしている。

この定義に沿って藤井教授のHPが「批判的思考」に合致しているか否かを考えて欲しい。

その結論を出すのは一人ひとりの国民だが、筆者には藤井教授のHPは、単なる「あら捜しと誹謗」としか映らなかった。

藤井教授は「橋下氏ほど危険な人物はいない」とか「橋下氏が内閣に入ったら亡命する」等と言う物騒な発言を繰り返しているが、冗談にしてはユーモアに欠け、真面目だとすれば知識に欠ける。

「論語読みの論語知らず」と言う言葉があるが、市民を代表する市長をこの様に断罪する事から判断して、藤井教授の英語力は「英語読みの英語知らず」程度の怪しい実力に思える。

と言うのは、テロの横行する今日、欧米先進国で言う「危険人物」とは「国防上のリスクのある人物(Security Risk)」を意味し、合法的に当局の監視下に置く事が許される事が多く、仮に藤井教授の文章が英訳された場合、「危険人物」を大都会の市長にしている日本の信頼を傷つける恐れがあるからだ。

「言論、表現、報道」の自由が日本より広く認められている欧米先進国でも、「公職」や「報道の職」にある人間が、他の公職や報道にある人物に向かって「危険人物」呼ばわりして職を失った人物も多い様に、「特権」にはそれなりの「責任」をともなう事も知って置くべきだろう。

「亡命云々」に至っては、日本の「閣僚の権限」や国連の「亡命基準」も全く知らない「無知」のなせる業としか言いようがない。

「嘘」や「大袈裟な表現(ハッタリ)」を使い慣れた藤井教授とは言え、言葉の正確さが命である現代のプロフェッショナルに求められる物は、藤井教授の尊敬するナチスドイツのデマゴーグの英雄ゲッペルスの時代とは違う事を肝に銘じて欲しい。

「藤井はん、力付かん内に派手言わんといて!」と言うのが筆者の願いである。

出来れば「イシュー(論争課題)」を巡って論議をしたいのだが、藤井教授は「大阪都構想ハンターイ」を連呼するばかりで、それに代る主張も構想もないため、藤井教授自身の「信頼性」を問題にしなければならないのは残念である。

2015年4月10日
北村 隆司