赦(ゆる)す心が「イスラム国」を破壊する(2)

2015年04月23日 04:24

僕は前稿でイエス・キリストが唱道した全き「赦(ゆる)しの心」だけが真に「イスラム国」を破壊できる、と書いた。

だが、われわれはイエス・キリストではない。イエス・キリストの説く赦しの心を理想としつつ、また彼のようでありたいと希求したとしても、われわれの大半は彼の域には到達できない。イエスの明示した世界が理想ならば、われわれの住むこの世界は現実である。

理想に向かって進まなければ理想は実現できない。また理想の存在を知りつつ、且つそこに到達したいと口では言いつつ、「当面は」現実的な解決を目指すというのは、つまり理想を捨てるということである。それは自己欺瞞であり、詭弁であり、偽善だ。

「イスラム国」を真に殲滅したいなら、イエス・キリストと同じ無条件の徹底した赦しの心が必要である。その心とそれに伴う行動だけが、憎しみの連鎖を断つことができる。だがそれは限りなく不可能に近い。

だからこそイエス・キリストは無条件の赦しを人間に要求する。無条件の赦しができるように自らを鼓舞し叱咤し努力せよ、というのがキリストの唱導するところであり宗教の教えだ。

僕はそうしたことを十二分に理解した上で、それでも次の解決策を提唱したい。あるいは世界がその方向に向かっているなら、その立場を追認したい。つまり「イスラム国」は破壊されるべきである。破壊され根絶された後に、はじめて赦されるべきである。

なぜなら彼らは間違っているからだ。彼らがカリフの導く理想国家を目指すのは良い。だがその為に彼らが持ち出した思想やその思想に基づく残虐な行動は許されるべきものではない。間違った思想と行動原理を振りかざして行う彼らの行為は悪であり危険なものだ。

例えば彼らは、何の罪も無い人質の首を斬って動画で晒しものにする、という残虐非道な行為を続けると同時に、イスラム教に改宗しない者は殺し、鞭打つ、と宣 言する。また女性は教育を受けてはならず、全身を覆うブルカを着用し、働いてもならない。自由恋愛も禁止し、この禁を破った娘は父親や兄弟や親戚の男らが 名誉殺人と 称して殺しても構わない、などとも考える。

彼らはおよそ市民社会の理念とは相容れない思想信条を持ち、世界がこれまでに築き上げてきた価値観や文明や自由をことごとく否定する。それは洋の東西を問わず、近代的理念を信奉する者にはとうてい受け入れられない態度だ。

アラブ系ムスリム移民を多く抱えて、彼らとキリスト教徒との軋轢がもたらす社会分裂の進行を危惧する欧州の国々の中には、「イスラム国」との対話を模索するべきだという声も少なからずある。ここイタリアにも、フランスにも、またドイツにも。

しかし、今の「イスラム国」との対話が可能だとは僕は思わない。対話の前に先ず「イスラム国」を撃滅するべきだ、と考える。そうやって組織を破壊した後に、組織の残党がいて且つ必要があるならば、そこで彼らと対話を開始すればいいのだ。

破壊するとは、赦さないということである。従って破壊した後に赦して対話をする、というのは大いなる矛盾である。しかし危険や悪を先ず攻撃しておいて、その後に救済するという動きは、人類の歴史上は決して珍しいことではない。矛盾が救いとして作用することはしばしば起こる。

一例を挙げれば、ヒトラーとナチスが殲滅された後に、連合国がドイツに進攻して占領という名の対話を開始して、ドイツを今のまともな道に誘導したこと。あるいはアメリカが同じ大戦で日本の軍国主義を徹底的に破壊した後、戦後日本と「恫喝という名の対話」を続けて、ついにわが国に民主主義を根付かせてくれたことである。

「イスラム国」がもたらす惨禍は、実際のところその組織を徹底的に破壊する形でしか阻止できない。だから破壊するべきだ。だが「イスラム国」の組織と戦闘員を破壊し尽くしても、過激思想は根絶できない。過激思想は必ずまた甦る。あるいは生き続ける。

生き続ける過激思想はやがて誰かを取り込んでは拡大し、将来また新たな「イスラム国」が作り上げられる。人類は、「イスラム国」を破壊することで「イスラム国」を創造する、という自家撞着に陥って問題は永遠に続くことになる。

それでも「イスラム国」は殲滅されるべきだ。なぜなら、そうしなければ「イスラム国」は、人類が間違いと失敗と誤謬を繰り返しながら営々と築いてきた「近代的理念や価値観」を木っ端微塵に粉砕してしまいかねない。だから致し方ない。先ず彼らを駆逐して、それから赦し、対話をする道を模索するしかないのである。

大事なことは、破壊した後に必ず彼らに救いの手を差しのべることだ。つまり、根絶された「イスラム国」の戦士の子供や、家族や支援者の中に芽生える憎しみをやわらげ、和解を求めて一心に行動する。それが破壊した者の義務にならなければならない。その義務を必ず遂行すると確認した上でのみ、破壊者は行動を起こすべきだ。

破壊は憎しみと同義語でありイエスの絶対的な赦しの教えとは相容れない。しかし、それが世俗の問題解決法だ。世俗に生きるわれわれは、憎悪の連鎖に縛られて呻吟しながら、もしも可能ならば、イエスの理想に近づく努力をすれば良い。

だが、世界はそれだけであってはならない。地球上にはイエス・キリストと同じ心を持つ者がいる。あるいはイエス・キリストと同じ心を持たなければ存在価値のない者がいる。それが全ての宗教でありその指導者たちだ。彼らは全き赦しの心を持って「イスラム国」と対峙し、彼らが武器を置いて静かに眠りに就くように説得を続けるべきだ。

残念ながら、「イスラム国」の暴力に暴力で立ち向かう、人々の挑戦は避けられない。世界はこの先ますます騒乱に満ちたものになって行くはずだ。だからこそ、あらゆる宗教指導者は、手を携えて平和を希求し赦しに満ちた世界を標榜し続けるべきだ。中でも特にいがみ合うことの多いキリスト教とイスラム教の指導者たちは、他の誰よりもそれを推進する義務がある。

そうすれば、「イスラム国」が消滅した暁にはあるいは、理想と現実が共鳴しあう「究極の理想世界」が出現するかもしれない。

仲宗根雅則
テレビ屋
イタリア在住

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