ナチス政権との決別と「戦争責任」 --- 長谷川 良

オーストリアで27日、ナチス・ドイツ軍解放と第2共和国建国宣言70年を祝う国家行事がウィーン市のホーフブルク宮殿でドイツのガウク大統領ら多数のゲストを迎えて挙行された。


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▲第2共和国建国祝賀国家行事で演説するフィッシャー大統領(大統領府公式HPから)

オーストリアは1938年、ナチス・ドイツに併合された後、ウィーン市が第3帝国の第2首都となるなど、ナチス・ドイツの戦争犯罪に深く関与してきたが、旧ソ連赤軍によって解放された。そして70年前の今月27日、カール・レンナーを首班とした臨時政権が発足し、第2共和国の建国が宣言された。

オーストリアは戦後、ナチス・ドイツの「最初の犠牲国だった」としてナチス・ドイツの戦争犯罪から距離を置いてきた。同国は1938年から45年の間、ヒトラー政権に強制的に併合された。1943年の「モスクワ宣言」では、「ナチス・ドイツ軍の蛮行は戦争犯罪であり、その責任はドイツ軍の指導者にある」と明記されたこともあって、オーストリアにはヒトラー政権の戦争犯罪責任はない、という立場だ。

それに対し、同国の戦争責任を追及する声が出てきた。国連事務総長を務めたワルトハイム氏が大統領に就任(任期1986年7月~92年7月)すると、世界ユダヤ協会から「ワルトハイム氏はナチス戦争犯罪に関与した疑いがある」と糾弾する声が飛び出した。戦争犯罪容疑を否定するワルトハイム氏に対して国際社会からも激しい批判が出、同氏は再選出馬を断念せざるを得なくなったほどだ。

同国は戦後、長い間、ナチス政権の犠牲国の立場をキープし、戦争責任を回避してきたが、フフランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月~96年3月)がイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて認めたことから、同国で歴史の見直しが始まったわけだ。そこまで到達するのに半世紀余りの月日が経過した。

ホーフブルク宮殿の国家行事でフィッシャー大統領は、「多くの国民はナチス・ドイツに反対し、抵抗したことは疑いないが、同時に、考えられないほど多くの国民がナチス・ドイツを支援し、その戦争犯罪に積極的に関与した。意識的に無関心を装った国民もいた。長い間、戦争責任に対して沈黙してきたことは遺憾だった。わが国は戦争犯罪に対して義務と責任を担うべきだった」と強調し、「欧米連合軍の勝利は非人道的な戦争犯罪を繰り返してきたナチス・ドイツからわが国民を解放してくれた」と指摘し、連合軍に感謝することも忘れなかった。

オーストリアは1945年、ナチス・ドイツ軍から解放された後、55年まで10年間、米英仏ソの4カ国の占領期間を経た後、1955年、再独立して今日に至る。ナチスの戦争犯罪への関与を認めた後、オーストリアはナチス・ドイツ軍の犠牲者に対する国家救済基金を創設し、強制労働者への賠償金支払い、ナチス犠牲者追悼碑建立などを行い、過去の歴史の清算に乗り出してきた。フィッシャー大統領は、「4月27日はわが国建国の土台であり、再生と新しいスタートを記念する日でもある」と述べ、演説を結んでいる。

ちなみに、金融危機下にあるギリシャでは、ナチス・ドイツ軍の占領時代(1941~44年)に対する戦時賠償金(2787億ユーロ=約36兆3100億円)支払いをドイツ政府に要求する動きがあるが、「ドイツだけではない。オーストリアもギリシャに対して戦時賠償金を支払うべきだ」という声がアテネから出てきた。オーストリアは戦後、ナチス政権の犠牲国という理由から莫大な戦時賠償金支払いを逃れてきたが、「ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の関与を認めた以上、戦時賠償金を払うのが道理だ」という主張だ。戦後70年の年月が過ぎたが、「過去の完全な決着は不可能」と述べたメルケル独首相の今年3月の訪日時の発言を思い出す。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年4月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。